太田述正コラム#14114(2024.3.26)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その39)>(2024.6.21公開)

「ユーラシア全域を覆った帝国秩序の崩潰・中国大陸に広がった内乱騒擾の波及で、シナ海沿海の治安も悪化を加えている。
 混乱の内戦を勝ち抜いて政権を掌握した明朝は、やがてそうした情勢に直面して、海上交易に対するコントロールを強めようと模索した。
 その結果が、板切れ一枚海に浮かべてはならぬ、とした「海禁」<(注51)>と、認定した周辺国から皇帝に朝見貢納のため派遣する使節以外の渡来はまかりならぬ、とした「朝貢一元体制」である。・・・」(185)

 (注51)「海禁政策は海防や華夷秩序の確立を目指した政治・国防を重視した政策であり、強権をもって新秩序を打ち立てる王朝建国期には一定の意義が存在した。元末明初の<支那>沿岸部は華夷混合のなか明朝支配が徹底されない混乱状態にあったが、海禁は沿岸部に新秩序を構築する一助を成し、民間貿易停止後は朝貢貿易を補完して冊封体制の構築や国内経済システムの補強に貢献した。清初においても海禁は鄭氏政権弱体化に一定の貢献を果たしている。しかし海禁は沿海地方の経済的発展を妨げまた税収を抑制する、経済・税収と相反する政策であった。そのため、新秩序が安定期に入ると海禁は反発を招き、社会的不安定化の要因となった。海禁を国是とした明朝においても、最終的には国家財政の困窮や後期倭寇という形の社会的圧力に屈し、海禁を緩和せざるを得なかった。
 <中共の>史学会では、<支那>が西洋に立ち遅れた原因は海禁に有ると考えられている。つまり、16世紀までの<支那>経済の発展は西洋に対しても大きな差がなかったが、国家間・地域間の相互刺激を通じて社会や経済の発展を促す貿易が海禁によって抑制されると<支那>の成長活力は減じられ、西洋に遅れを取ることになったとするものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%A6%81


[明建国時の地理的意味での西欧と支那の比較]

 14世紀中頃における西欧と支那の比較をごく簡単に行ってみれば、「注51」で紹介されているところの、中共の史学会の主張が成り立ちえないことが分かる。↓

 「ボローニャ大学・・・サラマンカ大学、パリ大学、トゥールーズ大学、モンペリエ大学、オックスブリッジ<両大学が、>12世紀から13世紀までに設立された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 「パリ大学<は、>・・・創設期には3つの上級学部(神学・法学・医学)の下に、学芸部(リベラル・アーツ<(注52)>)が設置されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E5%A4%A7%E5%AD%A6

 (注52)「文法学・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽の七学科」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%84

⇒西欧には、文理にわたる教養教育を伴う高等教育機関、しかも、自治的な高等教育機関が既に確立していたが、支那では、明建国時点(1368年)はもとより、それ以降も、清滅亡直前までそれに相当する高等教育機関が存在しなかった。(太田)

 「・・・
1311年・・・<イギリス>のリンカン大聖堂<(注53)>が完成。

 (注53)「完成当時は現存する塔の上に尖塔が載っており、なかでも中央塔はそれを含めると160mの高さがあり、当時のリンカン大聖堂はギザの大ピラミッドを抜き世界で最も高い建築物であった。しかし、尖塔は1549年の嵐で吹き飛ばされたため、現存しない。・・・なお、160mの高さは、1884年にワシントン記念塔が完成するまで塗り替えられず、建物としては1890年に<ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州>ウルム大聖堂が完成するまで塗り替えられなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

 尖塔までの高さは160mで初めてクフ王のピラミッドの高さを超えた建造物となる。・・・

⇒当時の西欧の技術水準が支那のそれを上回っていたことを象徴している。(太田)

(続く)