太田述正コラム#14116(2024.3.27)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その40)>(2024.6.22公開)

1323年頃・・・ウィリアム・オッカム<(注54)>が『論理学大全(Summa Logicae)』を執筆。・・・

 (注54)William of Ockham(1285~1347年)。「<イギリス>のオッカム村に生まれ・・・オックスフォード大学で学ぶ。・・・
 1323年、<同大学>学長<の>・・・ジョン・ラットレルから異端だとして当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられ・・・1324年、異端審問のためアヴィニョンの教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。・・・
 オッカムは・・・アヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0
 「ルートヴィヒ4世(Ludwig IV. der Bayer<。1281/1282~1347年)はルドルフ1世から続く5代目の非世襲ローマ王(ドイツ王、在位:1314年~1347年)、さらに正式な皇帝として戴冠するためのイタリア出兵を達成したイタリア王ロドヴィコ4世(在位:1327年~1347年)、神聖ローマ皇帝(戴冠:1328年1月17日)。神聖ローマ帝国はまだドイツに限定されていない中世的・普遍的キリスト教帝国の理念を残しており皇帝はローマで教皇によって戴冠する習わしだったが、当時はアヴィニョン捕囚期でローマに教皇がいなかったため、ローマ元老院議員シアッラ・コロンナによって戴冠している。
 ヴィッテルスバッハ家出身として1人目の王・皇帝で元は上バイエルン公(在位:1294年~1347年)、王となってからライン宮中伯(在位:1319年~1329年)、ブランデンブルク辺境伯(在位:1320年~1323年)、下バイエルン公(在位:1340年~1347年)、ホラント・エノー・ゼーラント伯(在位:1345年~1347年)も兼ねる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%924%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)

⇒オッカムは、私の理解では、神の存在は積極的に認めていたものの神学を事実上否定したことを咎められたものだが、当時の西欧では権威と権力が、教皇、と、皇帝/国王達、とに分離していたため、火刑死を免れることができたわけであり、権威と権力の分離の観念すらなかった支那よりも、相対的により思想の自由があった。(太田)

1337年・・・イ<ギリス>とフランスの間で百年戦争が始まる(-1453年)。・・・

⇒その1000数百年前の支那の戦国時代と同様の戦国時代に、当時、西欧はあったが、それがついに統一されることはなかった点で西欧は特異だった。
 このため、西欧では科学技術や社会制度の革新が、長期にわたって持続した。(太田)

1340年・・・サラードの戦い<(注55)>にて、カスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝はイベリア半島から撤退。・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/14%E4%B8%96%E7%B4%80

 (注55)「サラードの戦いは、レコンキスタの中の1つの戦いである。キリスト教国のポルトガル・カスティーリャ連合軍とイスラム教国のナスル朝・マリーン朝連合軍の戦いである。サラードの戦いは、レコンキスタ終盤における最後の最大の戦争である。
 それまで、ポルトガル王国とカスティーリャ王国は戦争中であった。そこへ北アフリカのマリーン朝がイベリア半島に侵攻したのである。
 マリーン朝は、モロッコにあるベルベル人の国家である。13世紀にムワッヒド朝が滅亡すると成立。
 この戦争でキリスト教勢力が勝利。マリーン朝はスペインから撤退した。しかし、ペストの流行で戦争は中断。ナスル朝の滅亡までは至らなかった。」
https://sekaishiotaku.com/country/esp/14c/

⇒しかし、その西欧では権威(宗教的権威)は一元化されていたので、その旗印の下、外からの脅威に対しては、「注55」からも分かるように、敵対関係を乗り越えて共同対処することによって、西欧は「独立」を維持することができたわけだが、このことを活かして、西欧は支那とは違って、社会を持続的に発展させ続けることができた。(太田)

(続く)