太田述正コラム#14118(2024.3.28)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その41)>(2024.6.23公開)

「鄭和はモンゴル帝国が併呑した雲南の出身である。
 つまりはモンゴル帝国なかりせば、存在しなかった歴史的人物だった。」(187)

 (注56)1371~1434年。「中慶路昆陽州宝山郷(現在の雲南省昆明市晋寧区)でムスリム(イスラム教徒)の次男として生まれた。・・・本姓は馬、初名は三保(三宝)<。>・・・姓の「馬」はサイイド(預言者ムハンマドの子孫)であることを示し、滇陽侯であった父の名は「米里金」とされるが「馬哈只(ハッジ)」として知られていた。鄭和は、チンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴル帝国に帰順し、元の世祖の治世に雲南平章政事として雲南の発展に尽力した色目人、サイイド・アジャッル・シャムスッディーン・ウマル(賽典赤)の来孫、成宗の治世に中書平章政事を務めたサイイド・アジャッル・バヤンの曾孫に当たる。・・・
 馬三保が生まれた年には、既に漢地は洪武帝の建てた明のほぼ支配下にあり、元は梁王国の拠る雲南など数か所で勢力を保つのみとなっていた。・・・1381年・・・、馬三保が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌・・・1382年・・・に梁王国は滅亡。父を殺された馬三保は捕らえられて去勢され、・・・1383年・・・頃に燕王朱棣(後の永楽帝)に12歳で宦官として献上された。
 洪武帝の没後に起きた靖難の変において馬三保は功績を挙げ、建文帝から帝位を奪取した朱棣(永楽帝)より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに・・・1404年・・・には鄭姓を下賜され、以後は鄭和と名乗るようになった。・・・
 明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華王朝側は入貢してきた国に対して、貢物の数倍から数十倍にあたる下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益につながるわけではない。このため、単に経済の面だけ見た場合、貿易形態が朝貢である以上は、明にとってはむしろ不利益となる。・・・
 <なお、>永楽年間の明は積極的な拡張政策を取っていた。永楽帝によるモンゴル高原への親征をはじめ、胡季犛が陳朝大越を簒奪して建てた胡朝大虞を認めず、・・・1407年・・・に派兵して大虞を滅ぼし、安南を支配下に置いたのはその例である。また、こうした直接の軍事侵攻だけでなく、宦官を周辺諸国に派遣して朝貢を促すことも積極的に行われていた。チベット、ネパール、ベンガルといった西南諸国には侯顕が繰り返し派遣され、特にベンガルへの派遣においては海路が取られている。李達は東チャガタイ・ハン国やティムール朝に計4度派遣され、西域諸国との折衝にあたっていた。李興はシャムへと派遣され、女真人のイシハ(亦失哈)は軍とともに黒龍江地方へと派遣されてこの広大な地域を明の支配下に組み込んだ。鄭和の大航海も、この動きの一環としてとらえることができる。こうした周辺諸国への朝貢要請に、軍事遠征の要素もあるイシハや鄭和も含めてすべて宦官が用いられたことは、永楽帝の宦官重用を示す好例ともなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C
 成宗(テムル。1265~1307年。在位:1294~1307年)は、元の第2代皇帝(モンゴル帝国の第6代カアン)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A0%E3%83%AB

⇒必ずしも、臣民ではない場合であっても、そういう遊牧民と臣民たる農民や商人との交易まで禁じたわけではなかろうことから、朝貢(朝見貢納)しか認めない政策なるものは、要するに、国が関与するような形での商業の忌避、ということであって、明もまた、儒教の商の蔑視という観念に羈束されていたのである、というのが私の理解です。
 このような迷信・・これに留まらないはずです・・にからめとられていた点もまた、支那が西欧や日本・・江戸時代においても鎖国などしていなかった!・・に後れをとった理由の一つでしょう。
 なお、西欧や日本には宦官がいなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A6%E5%AE%98
・・そもそも、西欧や日本には宮刑がなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%88%91
上、日本には西欧にはいたカストラート
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88
すらいなかった・・ことも銘記されるべきでしょう。(太田)

(続く)