太田述正コラム#14120(2024.3.29)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その42)>(2024.6.24公開)

 「・・・鄭和の遠征<とほぼ軌を一にして、>・・・インド洋航海・貿易の主たる担い手が、もはやムスリムでなくなった・・・。
 それはかつてユーラシア商圏の幹線をなしていたシルクロードのローカル化、およびその中核たる中央アジアの相対的な地盤沈下と軌を一にする現象であった。
 世界経済の担い手は西欧諸国となり、主要舞台・幹線道路は大西洋・インド洋のような大洋に移る。
 いわゆる大航海時代である。

⇒私は、この成り行きは、その動機が経済的なものでは必ずしもなかったと考えており、それを第4次ゲルマン人大移動、と名付けた(コラム#10813)ことをご記憶のむきもあろうかと思います。(太田)

 <この大航海時代において、>貴金属の埋蔵豊かな<日本>列島は、膨大な商品を生み出した大陸の恰好の市場となり、かくてシナ海上の交易増大が必然化した。
 「倭寇的状況」を生み出した原動力である。
もちろん日本列島だけではない。
 世界経済を創生、牽引した西欧のいわゆる「海洋帝国」「ヘゲモニー国家」、スペイン・ポルトガルからオランダ・イギリスにいたる諸国も、アメリカ大陸で掘り出した大量の貴金属を携えて、東アジアの「倭寇」に参入してきた。
 日本史でも「南蛮人」「紅毛人」の渡来としてあらわれた史実である。
 もちろん西洋人の来航は、中国大陸が先んじていたから、日本市場に著名な南蛮渡来も、むしろシナ海沿海の「倭寇的状況」に帰すべき事象だった。
 地勢的にいえば、日本列島への大陸側の窓口は、東シナ海に面する寧波<(注57)(にんぼー)>・浙江省である。

 (注57)上海の南方。「古くは遣唐使などの日本人留学生や僧侶が第一歩を記したところ<だ>。[元代には、元軍の第2回の日本遠征での江南軍の出港地となった。]また1404年に日本と明との間で開始した勘合貿易の際には、勘合船が最初に入港し、査証を受けたところであり、1523年には博多の大内氏と堺の細川氏が貿易の主導権をめぐっつて争った港町でもあ<る>。さらに徐福が不老長寿の薬を求めて日本に旅ったという伝説の場としても知られてい<る>。」
https://4travel.jp/travelogue/10229459
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87 ([]内)

 けれどもその地で大きな騒擾が起こって、文字どおりの「倭寇」と化し、浙江・日中の朝貢・東シナ海の範囲だけでは、収拾がつかなくなった。
 以後「倭寇」と呼ばれた貿易業者の活動は、シナ海沿海全域に広がってゆく。」(188~189)

⇒倭寇を象徴する人物が鄭成功(注58)でしょうね。
 鄭父子については、次回オフ会「講演」原稿でより詳しく取り上げる予定です。(太田)

 (注58)1624~1662年。「平戸で、父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれた。父・鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで、田川マツを娶り鄭成功が産まれた。・・・
 幼名を田川福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建に移る。鄭一族は泉州府の厦門島、金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、泉州府南安県の生員になった。以後、明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事している。
 幼かった弟の次郎左衛門は母と共に日本に留まり、田川家の嫡男となり田川七左衛門と名付けられて日本人として育った。長崎で商売が成功した七左衛門は、鄭成功と手紙でやり取りを続け、資金や物質面で鄭成功を援助していた。・・・
 1644年、李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。・・・
 そんな中、鄭成功は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、鄭成功は決して朱姓を使おうとはせず、鄭姓を名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。
 隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、父鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。・・・
 その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。・・・
 1660年代から生産が始まった有田焼の柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたもので、初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、明の海禁政策により景徳鎮の陶磁器を扱えなくなった鄭成功が有田に目を付け、景徳鎮の赤絵の技術を持ち込み有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっている。・・・
 鄭成功の台湾攻略は東アジアにおける欧州人の植民地拡大の北限と転換点を象徴している。これにより、台湾はフィリピン、マレーシア、インドネシアなどと同様に数百年に渡って欧州人に支配されることはなくなった。・・・
 鄭成功は自身の目標だった「反清復明」を果たす事なく死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことから、台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」と評価されている。中国や台湾では英雄と見なされており、福建省廈門市の鼓浪嶼では、鄭成功の巨大像が台湾の方を向いて立っている<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F

(続く)