太田述正コラム#14122(2024.3.30)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その43)>(2024.6.25公開)

 「・・・福建・・・が重要なのは、朱子学が発祥し、別名を「閩学(びんがく)」<(注63)>と称した一事だけで、すでに明らかだといってよい。・・・

 (注63)この言葉が単独で用いられることは少なそうだ。↓
 濂洛関閩学(れんらくかんびんのがく)。「 宋学をいう。「濂」は濂渓、「洛」は洛陽、「関」は関中、「閩」は福建で、それぞれ宋学の代表的学者である周敦頤<(コラム#10233、11161、11177、11191)>(しゅうとんい)、程顥および弟の程頤、張載、朱熹の生地。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BF%82%E6%B4%9B%E9%96%A2%E9%96%A9%E5%AD%A6-2093405
 洛閩学(らくびんのがく)。「程朱の学<、>すなわち、いわゆる宋学をさしていう。・・・程顥と程頤は洛陽、朱熹は閩中の人であった<。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%9B%E9%96%A9%E5%AD%A6-2092130
 周敦頤(1017~73年)。「湖南省の人。・・・官僚としての経歴には目だったところはないが,朱熹の顕彰により,道学(朱子学)の第一走者として崇敬され,《宋史》道学伝の筆頭に伝記を立てられた。著書に《通書》と《太極図説》がある。前者で説かれる〈人は学ぶことによって聖人になりうる〉という主張は,のちの朱子学と陽明学のバックボーンとなった。後者は,1枚の《太極図》とその短い解説から成る。ほんらいこの図は,錬金術の公式として道教徒のあいだに伝えられてきたものだが,彼はこれを儒教的見地から解釈しなおし,〈太極〉において宇宙自然と人間とを統一することに成功した。朱子学の基本的な枠組みは,この《太極図説》をぬきにしては考えられない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%91%A8%E6%95%A6%E9%A0%A4-77279
 張載(1020~1077年)。「鳳翔郿(ほうしょうび)県(いまの陝西(せんせい)省眉県)横渠鎮(おうきょちん)の人<。>・・・程顥(ていこう)・程頤(ていい)の表叔(母方の叔父)である。異民族の侵入もある土地柄から、青年時代、軍事を論ずることを好んだが、・・・名教(儒教)に志し、仏老の書にも目を向けながら研鑽の日々を送った。38歳、程頤らとともに科挙に及第し、地方官としてとくに辺境の民政軍事面に見識を示した。やがて神宗(しんそう)に召され、三代の治の復活を進言して古礼を説き井田制を主張したが、結局王安石とあわず、故郷に帰り講学に専念した。陝西つまり関中で講学したので、その学派を関学と称する。張載はとくに思想的に仏教との対決を試み、その幻妄説の排撃を意図して「太虚(たいきょ)即気」論を唱えた。そして仏者の心性説に対抗すべく、気の存在論と心性論の統一を図ろうとした。虚無・空無を否定して気が聚(あつ)まると万物となり、気が散じると太虚となると考え、人間の認識のいかんにかかわらず万物の変化は気によることを明確にした。物の生成をめぐる一気と陰陽の関係の分析や、気質という概念の提出は、天地の性、気質の性という性論、気質を変化させるという修養論とともに、朱子学の形成に大きく関与した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%B5%E8%BC%89-97831

⇒漢の時代に孔子の思想に諸迷信がくっつけられて宗教化して儒教が成立したところ、この宋の時点で、儒教に更に馬鹿馬鹿しい形而上学がくっつけられていった、というわけです。(太田)

 かれらは農業に限界を感じると、「必ず儒を業」とした。
 もちろん海洋にくり出しての生業選択もあった<が・・。>・・・
 福建はやがて、科挙の合格者で全土のトップに踊り出る。
 宋代の科挙最終試験合格者数は2万9000人弱、うち福建が7100人あまりと4分の1を占め、圧倒的なシェアだった。
福建はこうした科挙志向、具体的には受験参考書の大きな需要に応じ、紙の生産に恵まれていた条件などもあいまって、出版文化の一大拠点となる。 
 その中心だった建安は朱熹の本拠地、朱子学の故郷だった。
 つまりは科挙を奇貨とする福建の受験産業・出版業が、朱子学を育み成長させていったのである。
 朱子学とは元来そんな生計の具、生存戦略の所産としての学知なのであって、逆にいえば、だからこそ急速な普及、勢力の伸長も可能になった。
 朱子学は元来、田舎出自のマイナーな学派である。
 弾圧を受けた時期もあった。
 ところが、いつしか正統教学と化して、「閩学」だった出自を忘れ去られる。
 決して主流ではなく、斜に構えた。
 逸脱した形態から出発しながら、やがて全土を風靡する普遍をそなえた。

⇒非常に面白い主張ではあるものの、若干でも典拠をつけてもらわないと・・。
 なお、私は、朱子学の江南性がまだ分からないままでいます。(太田)

 すでにみた陽明学「左派」の「過激派」李卓吾も福建泉州の出身で、・・・その学問も「叛逆」的な「異端」で「挫折」したけれども、一世を風靡したのはまちがいなかった。・・・」(194~195)

(続く)