太田述正コラム#14124(2024.3.31)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その44)>(2024.6.26公開)

 「福建より豊かだったためか、あるいは中原・中華からいっそう遠隔だからなのか、広東は科挙でも、関連する学術・思想でも、目につく動きは遅かった。・・・
 <しかし、>15世紀に・・・広州で、きわだった思想家があらわれた。
 広州新会県出身の陳白沙(陳献章(けんしょう))<(注64)>である。

 (注64)「広東省新会県白沙里の人。正統年間郷試に合格したが、以後は及第していない。27歳で朱子学<を>・・・学んだが、半年で去り読書生活に入った。しばしば推挙され翰林院検討の官を授けられたが故郷に帰り、以後任官することはなかった。陳献章の学は静を根本に据え、静坐(せいざ)によって心を明澄にする修養を説いた。静中に端倪(いとぐち)を得、そこから天地宇宙に充満する理を体得し、この理こそわが心にほかならないと確信するに至る。ここを体得すれば、「天地は我によって立ち、すべての現象は我から生まれ、宇宙は我にある」と説く。このように外的に規範を追求するのではなく、人間の心が本来具有している能力を信頼し、心のあり方に人間の主体性の確立を求める学問を心学とよぶが、王陽明(守仁)とともに心学の先駆をなした。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B3%E7%8C%AE%E7%AB%A0-98636#

 朱子学の書物主義を脱却し、はじめて思索・実践の学をとなえて、・・・明代に社会を風靡した心学・陽明学の先駆・先導となった。・・・
 考証学<も>・・・18世紀の後半に長江デルタを中心に最盛期を迎えた<が、>・・・広東への普及は最も遅<く、>・・・本格的に伝わったのは、ようやく19世紀に入ってからである。
 その大きな契機は、当代隋一の阮元<(注65)>(げんげん)という大学者が大官として広州に赴任し、学海堂という学校を作ったことにあった。・・・」(196~197)

 (注65)1764~1849年。「江蘇(こうそ)省儀徴(ぎちょう)県の人。・・・進士となり,累進して浙江・江西・河南の巡撫,湖広・両広・雲貴の総督などを歴任し,体仁閣大学士となった。・・・
 学者としては宋学を排して漢学を宗とし,直接には戴震の学問を継承して言語や文字の研究から古代の制度や思想を解明しようとした。しかしその学問領域はきわめて広く,乾隆・嘉慶年間(1736-1820)における考証学の集大成者で,詁経精舎(こけいしようじや)(浙江),学海堂(広東)を設立して学術を振興し,多くの学者を集めて書物の編纂事業を統督し,学界に貢献した。・・・
 日本の江戸中期の儒学者山井鼎(やまのいかなえ)(崑崙(こんろん))の『七経孟子考文(しちけいもうしこうぶん)』をみての『十三経注疏挍勘記(じゅうさんけいちゅうそこうかんき)』・・・などがある。」
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 山井崑崙(1681/1690~1728年)。「[医者の・・・長男として生まれる。]・・・伊藤仁斎・東涯父子・・・に学んだのち、江戸に出て荻生徂徠(おぎゅうそらい)に師事、・・・紀州藩の支藩・・・伊予(愛媛県)の西条藩に仕えた。・・・徂徠の勧めに従って、友人根本遜志(そんし)(武夷(ぶい)、1699―1764)と足利学校遺跡を訪ね、3年間を費やして諸善本を読み合わせ、『七経孟子考文』を著した。<支那>で滅びた日本伝来の古籍の面目を伝えたもので、・・・[崑崙の死後、幕府は荻生北渓(荻生徂徠の弟)に命じて『七経孟子攷文』に校訂を加えさせ『七経孟子攷文補遺』として上梓された。『七経孟子攷文補遺』]・・・は清・・・の・・・[乾隆帝の勅命により編纂された漢籍叢書]・・・「四庫全書」に収録された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E4%BA%95%E5%B4%91%E5%B4%99-1118193
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%BA%95%E5%B4%91%E5%B4%99 ([]内)

⇒阮元が日本人の著作を読んでいたことが「注65」から分かりますが、このことからも、私が、程顥や李卓吾が日本や日本人の著作の影響を受けている可能性を指摘したことの信憑性が増すというものです。
 それにしても、(当然のこととはいえ、)宋~清の支那の思想家は官僚ばかりですね。(太田)

(続く)