太田述正コラム#14126(2024.4.1)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その45)>(2024.6.27公開)

 「学海堂の学長を30年つとめた陳澧<(注66)は、>(ちんれい)・・・広州出身で一代の碩学であ<り、>・・・正統な儒学より、むしろ異端の諸子百家の研究で著名だった。・・・

 (注66)1810~1882年。「会試(進士の試験)に連続して七度応じて落第する<。>・・・
 天文、地理、暦算、音韻(おんいん)、楽律など多方面にわたる著書60余種を残している。その学風は『漢儒通義』7巻、『東塾読書記』25巻によく伝えられていて、漢学のいわゆる実事求是(じつじきゅうぜ)を信奉して鄭玄(じょうげん)の学を尊重するが、同時に宋学のいわゆる経世致用(けいせいちよう)を重視して朱熹(朱子)の学問をも重んじる、という風であ<り、>・・・独創性は少いが,堅実な安定感がある。・・・この不偏不党の態度はけだし、アヘン戦争以来の内憂外患の時代情況がもはや漢学・宋学の対立を許さなくなったことに由来しよう。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B3%E6%BE%A7-98805
 なお、「音韻学者として<は、>『切韻考』を著し、中古音の声母系統を研究した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%BE%A7

⇒陳澧は官僚になりそこねたおかげで、学問の守備範囲を儒教以外に広げることができたものの、どの分野であれ、深堀りする暇も能力も不足していた感があります。(太田)

 広東人は19世紀の前半、・・・身をもって西洋貿易・アヘン戦争を経験した。
 以後も西洋人と最も多く接触、交流した・・・。
 当初は経済的な方面に限られていたそれは、中国大陸の開港場で西洋人の居留・活動が恒常化するのにともなって、文化・思想にまで及んでくる。
 諸子学が当初、その橋渡しになった。 
 学理・思想の近代化・西洋化は、まず西洋の学術を諸子百家に附会、こじつけて理解することですすんだからである。
 諸子百家は数学や軍事など、儒教の学理では説明の難しい西洋の諸学にも合致する面が多かった<からだ。>・・・
 だからその段階では、なお体制イデオロギーの根幹をなす正統儒学とは関わりづらかった。
 実用・技術はともかく、制度・体制そのものの西洋化にいたらなかったのも、それが一因である。・・・
 「中体西用」<(注67)>と称したゆえんである。・・・」(197~199)

 (注67)「「中体西用」にあたる思想を最初に唱導したのは馮桂芬<(下出)>である。太平天国戦争時の1861年・・・11月、上海租界に避難していた馮桂芬は『校邠廬抗議』を著し、「以中國之倫常名教為原本,輔以諸國富強之術」と述べた。馮桂芬は西洋の兵器を導入した新しい軍隊の創設を李鴻章に進言し、これを容れた李鴻章は長江で太平軍をやぶる(淮軍の建軍)。李鴻章は『校邠廬抗議』を称賛した。李鴻章ら洋務派官僚は太平軍との戦闘において西洋の工業技術、もっと端的に言えば兵器の優秀さを認識し、西洋文明の部分的な導入を図ることになった。
 「中体西用」という言葉は、1898年(洋務運動末期、戊戌の変法の年)に刊行された沈寿康『匡時策』の「中学為体,西学為用(中學為體,西學為用)」や、張之洞『勧学篇』の「旧学為体,新学為用」に由来する。1921年(中華民国期)には、梁啓超が『清代学術概論』で張之洞を「中体西用」の主導者に位置付けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BD%93%E8%A5%BF%E7%94%A8
 馮桂芬(ふうけいふん。1809~1874年)。「1840年・・・、31歳で進士となる。はじめ翰林院編修などの役職にあったが父の死で帰郷。そのまましばらく晴耕雨読の日々を過ごしていた。だが、咸豊帝即位直後に太平天国との戦火が著しくなると、蘇州を死守するため自ら赴き一団を募り抗戦したが、・・・1860年・・・に蘇州は陥落、上海に落ち延び、そこで曽国藩の傘下となり防衛を続けた。
 ・・・1862年・・・、曽国藩の部下で上海へ派遣された李鴻章と共に上海での戦いで太平天国の軍勢を撃退すると翌・・・1863年・・・に蘇州も取り戻し、再び学問の研究に没頭し表舞台から退く決心をするも、李鴻章に招かれて陪臣として仕え、同治年間の清の初期改革の半ばを献策。科学技術、兵力などの強化に貢献した。・・・
 馮桂芬の残した発想は張之洞らに受け継がれ完成を見る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E6%A1%82%E8%8A%AC
 張之洞(1837~1909年)。「1852年・・・に15歳で郷試に合格し、・・・1863年・・・に26歳で進士(探花)とな<った。>・・・
 1898年)に起こった変法運動に対しては、変法派が組織していた強学会の会長を務めていたため理解を示していたが、著作である『勧学篇』(1898年)の中で「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。戊戌の政変で変法派が追放されてからは逼塞していたが、・・・1900年・・・の義和団の乱の際には唐才常ら自立軍の蜂起鎮圧、盛宣懐・張謇を通して劉坤一と共に東南互保を結び、・・・1901年・・・には劉坤一と連名で「江楚会奏三折」と呼ばれる上奏で変法の詔勅を発布させた(光緒新政)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%B9%8B%E6%B4%9E

⇒ここもなかなか面白いけれど、典拠が・・。
 とまれ、中体西用を始めた馮桂芬にせよ、そのネーミングを行い、推進した張之洞にせよ、科挙合格官僚であり、彼らには、陳澧とは違って諸子百家がらみの事績も、また、いずれにせよ、軍事に関する事績も、なさそうですね。(太田)

(続く)