太田述正コラム#14128(2024.4.2)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その46)>(2024.6.28公開)

 「儒教そのものの見直しを迫る動きも、やがて強まってきた。
 公羊学<(注68)>(くようがく)がその典型である。

 (注68)「清代中ごろに至り,まず常州(江蘇省)の荘存与(1719-88)が《春秋公羊伝》を顕彰し,ついで劉逢禄が何休の公羊学を重んじ《左氏伝》は劉歆の偽作だと指摘し,さらに龔自珍(きようじちん),魏源は,現実を遊離した考証学的学風を批判し,当面の崩壊しつつある王朝体制を救うために,何休の公羊学にもとづいて〈変〉の観念を強調した。しかし,公羊学を最も重んじて政治変革の理論的根拠としたのは,戊戌(ぼじゆつ)変法(1898)の指導者,康有為である。彼は公羊学の三世説を《礼記(らいき)》礼運篇の拠乱世,小康世,大同世に配当し,さらに西欧の社会進化論を結びつけて3段階の歴史発展を考え,立憲君主政体を実現することにより当面の拠乱世から小康世への展開を目ざした。しかし守旧派のクーデタにより変法運動は失敗に終わった。・・・
 考証学に代わり思想界に大きな役割を果たした。孔子を革命主義者として把握し,政治的実践を尊び,時代の変化,進歩を認める学説は,戊戌(ぼじゅつ)の変法運動など革新政治の根本理念となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E7%BE%8A%E5%AD%A6-56128

 最も古い時代のオリジナルな儒教を究明しようとめざした学派で、孔子を教祖として尊崇し、進歩の観念をそなえていたから、キリスト教徒通じる面もあった。
 その学統から広州出身の康有為、および梁啓超を筆頭とするその一派があらわれる。
 康有為は独自の学説をとなえ、西洋の学術・思想・制度を儒教・公羊学に附会して、その需要を正当化した。
 果ては儒教を「孔(子)教」と称し、キリスト教化さえしようとして、終生その運動を続けている。

⇒孔子が追求した「仁」は、イエスが追求した「愛」より、人間主義の観点からは、よりまともではあるけれど、両者が似通っている部分もある(後述)ことから、康有為のこの試みは理解できないわけでもありません。(太田)

 教理にとどまらない。
 そうした理論を政治の場にもちこんで、体制の変革をすすめた。
 いわゆる変法運動<(注69)>である。

 (注69)「清末期に行われた上からの政治改革運動。戊戌 (ぼじゆつ) の変法ともいう。
 変法とは,西洋文化の物質面だけを摂取した洋務運動を批判し,西洋の政治制度にも学んで中国の制度を改めようとする考え方。日清戦争の敗戦による刺激のなかで,1898年,康有為・梁啓超・譚嗣同 (たんしどう) らを中心に,光緒帝を動かし公羊学の大同思想を根底において行われた。具体的には日本の明治維新にならって,政治組織の改革,産業の振興,軍隊の洋式化,科挙の廃止と洋式学校設立,官報の発行,纏足の禁止,翻訳局の設置などの諸改革を断行し,立憲君主政の国家をつくろうとした。しかし,西太后を中心とする保守派の反対で失敗(戊戌の政変)。康有為の他には,張之洞 (ちようしどう) が洋務から変法への動きを示した。なお,変法運動による政治改革は100日あまりで失敗したことから,百日維新とも呼ばれる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%89%E6%B3%95%E9%81%8B%E5%8B%95-1413329

 ここから中国の本格的な西洋国家化がはじまったのであり、その推進力は広東からもたらされた。
 19世紀も最末期のことである。」(199~200)

⇒支那における、洋務運動/中体西用、も、変法運動/戊戌の変法、も、また、日本における明治維新/和魂洋才、も、俯瞰的に見れば、大同小異なのであり、前者が失敗し、後者が成功した、のは、「中体」が、私の言う普通人文明支那亜種・・弥生的縄文人が普通人を率いる・・だったのに対し、「和魂」が、私の言う日本文明・・縄文的弥生人が縄文人を率いる)だったところにある、と、私は考えるに至っています。
 つまり、弥生人的2文明からなる西欧勢力・・これにやがて日本も加わる・・の東漸に対し、同じ弥生人抜きであっても、前者は対処できなかったけれど、後者は対処できた、と。
 (弥生人的2文明とは、取り敢えずは、縄文的弥生人文明のアングロサクソン文明、と、弥生人が普通人を率いる欧州文明、である、と、申し上げておきましょうか。)(太田)

(続く)