太田述正コラム#14132(2024.4.4)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その47)>(2024.6.30公開)

⇒直感的に、誤解に基づいた、しかも、絵に描いた餅に終わった、話である、と、断定したくなる。(太田)

 しかし中国伝統の大同思想を正面からとりあげて,壮大で詳細な社会理論に組み立てたのは,清代末期(19世紀末)の康有為が最初である。彼は・・・大同・・・を古代<支那>の尭舜の世に求め、・・・大同・小康の関係を逆転させて,社会は小康から大同へ向かうものと考え,しかも,これに後漢時代の公羊(くよう)学者何休の〈張三世〉という歴史観および当時欧米から伝えられた進化論を組み合わせて,拠乱世→升平世(小康)→太平世(大同)という順序で社会は進化発展していくという構想を立てた。彼は中国の現状を,無量数の苦悩に満ちた拠乱世に当て,遠い未来にいっさいの苦悩から解放されて自由で公平な大同世界を想定し,そのために民衆を救済することをおのれの使命とした。・・・<また、>西洋<の>民主主義<等>の<支那>的根拠をここに求めて・・・彼の主著《大同書》・・・を作った<。>・・・<その中には>このような世界改革のプランと道程が示されてい<て、>・・・変法運動のよりどころとした。・・・
 ちなみに、1919年の国際連盟の成立は、康有為には大同世の実現と映ったようである。・・・
 彼の大同思想は,私淑の弟子譚嗣同(たんしどう)の《仁学》にうけつがれているが,一方その反対派である孫文の三民主義や蔡元培の社会思想にも,大同思想が見られ,さらに,現代の毛沢東の思想にさえも,かすかながらその影響を見ることができる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E6%80%9D%E6%83%B3-91681
 譚嗣同(1865~1898年)は、「湖南省長沙府瀏陽県の人<だが、>・・・実際に生まれたのは北京宣武城・・・。父は湖北巡撫という地方の大官にまで上りつめた<人物。>・・・30歳(1895年)までに6度省試(科挙のうち省レヴェルで行われる試験)を受験したが、全て落第している。・・・
 最も大きな転機となったのが<、この30歳の時の>1895年・・・の日清戦争敗戦である。この時譚嗣同は・・・、清朝の敗北に衝撃を受け、科挙のためにする学問や経典の字句の考証に血道をあげる考証学といった現実から遊離した学問から決別し、改革のための学、すなわち経世致用の学を志すようになる。・・・
 譚嗣同の代表作『仁学』は、・・・ヘンリー・ウッド著“Ideal Suggestion Through Mental Photography”(1893)を漢語訳した『治心免病法』・・・に大きな示唆を得ている。次に・・・、仏教にのめり込<み、>・・・仏教を学びながら、先述の『仁学』を書き上げたのである。・・・
 ・・・<そして、>[康有為の変法自強運動の熱烈な協力者<となった]」が、>戊戌政変に遭遇して捕らえられ、刑場の露と消えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%9A%E5%97%A3%E5%90%8C
 「<『>仁学<』は、>・・・譚嗣同 (たんしどう) の主著。上下2巻。 1896~97年の著作という。康有為の変法自強運動の熱烈な協力者であった譚は,思想上でも康の『大同書』の主張を継承,孔子を改革者とし,・・・仏教の唯識や華厳の思想と西洋の自然科学の知識・・・<や>キリスト教・・・をとり入れ・・・,宇宙に充満するエーテルが仁という根本原理であるとした。・・・
 極端な博愛平等を主張,・・・国家,家族における上下関係の廃止,婦人の解放など万物の無差別平等を主張し,清朝を攻撃し・・・,理想社会の実現を説いた・・・ため発禁となる。梁啓超が日本(横浜)で出版し,辛亥(しんがい)革命の一起因となった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E5%AD%A6-81376 ([]内も)

⇒康有為も譚嗣同も、軍事素養が欠如していたこともあり、西欧において民主主義等は目的ではなく(軍事の)手段である、ということに、二人とも、恐らくは気付かなかったのだろう。(太田) 

(続く)