太田述正コラム#14134(2024.4.5)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その48)>(2024.7.1公開)

 「・・・かつての「倭寇」・<広東出身の>洪秀全・<同じく広東出身の>孫文のように、・・・海外と結んだ革新は、・・・やがて弾圧の運命が待っていた。
 それなら香港の現状も、また広東の伝統を忠実になぞってはいないだろうか。
 福建の対岸にある台湾の運命はどうか。・・・
 <さて、>「江南」とは長江流域以南の謂(いい)である。
 ここまで長江の上流域・下流域、およびそれより南方の沿海地域をみてきた。・・・
 それでもなお余しているとすれば、ちょうど真ん中・長江の中流域だろうか。
 現代の湖北省、湖南省の地にあたる。・・・
かつて春秋時代、長江中流域は楚国が盤踞していた。・・・
 <しかし、>失意のうちに世を去った<楚の>懐王と屈原のエピソードが暗示するのは、・・・かれらの退場とともに、・・・長江中流域・・・はほぼ歴史の主要な舞台ではなくなっ<てしまうことだった。>・・・
 秦<によって>・・・本拠を失った楚は、下流に東遷して命脈を長らえる。
 むしろ北方の淮河流域を本拠とする国に変質した。
 もはや長江中流域、湖北・湖南の国ではない。
 <前出>のような「呉楚」になってしまう。
 したがって秦を亡ぼす項羽の「楚」も、漢王朝・長安政府に背いた「呉楚七国」の「楚」も、かつて長江中流域に首邑を置いた楚とは異なる。
 別の国と考えたほうがよい。・・・ 
梁啓超<(コラム#13381)は、>・・・二千年来、湖南を用いたのは、蕭銑<(注72)>(しょうせん)と馬殷<(注75)>しかいなかった<、と、>・・・論評<している。>・・・

 (注72)583~621年。「<現在の山東省>に生まれる。・・・隋末唐初に割拠した群雄の一人。後梁(西梁)の宣帝の曾孫にあたり、自立して<、618~621年、>梁の皇帝を称し・・・<現在の湖北省の>江陵に都を置<い>・・・たが、唐によって滅ぼされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E9%8A%91
 (注75)852~930年。「<現在の河南省>に生まれる。はじめ木工職人であったが、・・・<現在の湖南省>で一大勢力を築き上げた。・・・896年)、武安軍節度使となる。・・・907年・・・に唐が滅んで後梁が成立すると、太祖朱晃から<五代十国の十国の一つである>楚王に封じられた<・・907~930年・・>。923年・・・に後梁が後唐に滅ぼされると後唐に臣従し、その元で勢力を巧みに拡大した。その一方で中央王朝の制度を積極的に導入して王朝の確立を目指し、産業の奨励・発展を図るなど、内政にも尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%AE%B7

 ところが19世紀半ば以降、「にわかに起こった」曾国藩<(注76)>の勢力が中国各地を平定、その「声誉」は四方を震撼した。

 (注76)1811~1872年。「清代末期の軍人、政治家。・・・湖南省・・・の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%9B%BD%E8%97%A9

 「湖南人が全国に大なる影響を及ぼしたのは、じつに50年以上をさかのぼらない」と梁啓超は断じる。」(202、205~207、231~232)

⇒梁啓超(1873~1929年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%95%93%E8%B6%85
とは違って、我々は、毛沢東(1893~1976年)が湖南省出身である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%95%93%E8%B6%85
ことを知っていることもあり、長江中流域に人材払底時代が続いた、という梁啓超の指摘は本当に正しいのだろうか、と、思ってしまいますね。(太田)

(続く)