太田述正コラム#14136(2024.4.6)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その49)>(2024.7.2公開)

 「・・・もっともすべて曾国藩が転機であり、そこで湖南が突然変異したとみては、いかにも武断的に失する。

⇒「武断的に失する」は校正ミスでしょうが、突然変異であるワケがないだろう、とは、私も同感です。(太田)

 系譜の出発点をなすのは、17世紀の明清交代を体験した学者・王夫之<(注77)>(おうふうし)であろうか。

 (注77)1619~1692年。「<現在の湖南省>の出身。・・・明末の四大思想家(ほか三人は顧炎武・黄宗羲・朱舜水)に数えられる。黄宗羲をのぞいて皆、終生辮髪しなかった。
 明王朝が朝廷党争・将領離叛に明け暮れ、ついには民衆反乱・外夷(清)侵略によって滅んだことから、強い華夷思想と身分秩序の確立の必要性を表し、陽明学、特に李贄の思想を激しく批判した。その一方で尚古思想を厳しく切り捨てて、中華民族を復興して新しい政治を確立する必要を唱えた。そのために強力過ぎる皇帝権力を抑えて郡県制を軸とした分権制度を確立し、豪農の土地兼併や商人の営利活動を規制して、中小の自営農民を保護する体制確立を求めた。その思想は清末の反清民族活動にも強い影響を与えた。その後、アヘン戦争に先立ち「船山遺書」百五十巻が裔孫によって整理され、曽国藩兄弟が増補して上梓させた。ひいては譚嗣同・毛沢東が感銘を受けたといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%A4%AB%E4%B9%8B

 上にふれた顧炎武と同時代人である。
 しかし湖南という田舎住まいの王夫之には、経済文化の中枢・第一の都会・蘇州出身で、最先端の考証経学を創始した顧炎武のようなマネはできない。
 むしろ古い朱子学を受け継ぎ、史書の読み直しを重んじた碩学だった。・・・
 満州人の君臨に対する憤懣を綴った王夫之の著述は、もちろん清朝政権の下ではタブー、埋もれて知られてこなかった。
 これを世に出したのは、じつに清朝中興の功臣・曾国藩その人である。
 かれは太平天国との交戦中から、同郷の知識人を動員して、王夫之の全集『船山遺書(せんざんいしょ)』の復刻をはじめ、数年がかりで刊行を完結させた。・・・
 <その>ねらい・真意はよくわからない。・・・
 新旧同居という点では、両者どうやら同じだった。・・・
 たとえば黄興<(コラム#5102)>・宋教仁<(コラム#234)>という辛亥革命の主翼をになった湖南人がいる。
 前者は清濁併せ呑む任侠的な、むしろ旧型のリーダーであり、他とも妥協しがちだったのに対し、後者は議院制実現に邁進した先鋭的な活動家であって、志半ばで政敵の刺客の手に斃れた。
 手を携えて革命運動を始めた同郷の2人ではありながら、このように新旧の共棲・乖離がある。
 また同じ1910年代、楊度<(注78)>(ようたく)という黄興と同世代の知識人は、立憲・帝制を支持して、宋教仁ら革命派と争った。

 (注78)1875~1931年。「湖南省・・・出身<。>・・・1902年・・・5月、日本に留学し、弘文学院で学ぶ。その一方で、『遊学訳編』という月刊誌を編集し、西洋の政治学を留学生に紹介した。11月に帰国し、翌年、四川総督錫良の推薦により、戊戌の変法後に科挙に新しく設けられた経済特科を皇帝臨席の保和殿で受験し、第一等第二名の成績を得た(第一等第一名は梁士詒)。しかし、梁士詒とともに康有為・梁啓超の一党と疑われたため、楊は再び日本へ渡った。1904年・・・に法政大学速成科に入学し、中国留日学生総会館幹事長となる。
 1905年・・・7月、楊は孫文(孫中山)と対面し、その場で孫から中国同盟会加入を勧められた。楊はこれを辞退したものの、黄興を孫に紹介している。後に楊は横浜に逗留していた孫と再会し、議論を繰り広げたが、結局、楊は立憲君主制支持の立場を守った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%BA%A6

 ところがのちには革命に傾斜し、果ては国民党にも共産党にも加入している。
 そうした転変の生涯も、湖南人らしい一つの類型を示すのかもしれない。
 そんな新旧の対蹠的な並存は、時に曾国藩と太平天国のように、順逆の相克・葛藤に転化する。
 掉尾を飾るのが、毛沢東・劉少奇だろうか。
 ともに革命を成就し中華人民共和国を建設した、湖南人にして共産党首脳の2人がいきついたのは、一方が他方を断罪した文化大革命という結末である。 
 それは新旧・順逆が揺れ動いて定まらない湖南、ひいては多様多元をまとめあぐねている中国全体を、そのまま映し出す史実なのかもしれない。」(232~235)

⇒雑感2つ。一、湖北はどこに消えてしまったのか? 二、湖南/湖北を含む江南と日本との関係は、弥生人渡来の昔に遡るが、前者が後者から学んだのは、明治時代/清末以降に限らず、ずっと以前からそうだった、というか、交流は常に双方向であり続けたのではないか。(太田)

(完)