太田述正コラム#14140(2024.4.8)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その2)>(2024.7.4公開)
「明治政府は明治3年(1870)に平民に苗字(姓)を使うことを許した・・・が、明治20年代後半までは、女性は生家の姓を用いていた<ところ、>民法が公布された明治31年以後、「夫の姓」<ならぬ>「夫の家の姓」を用いることになった・・・。・・・
<そもそも、>婚姻をしても、夫婦夫々の氏に変動は起らないというのが、キリスト教国を除く世界諸民族の慣習法であった<のであり、>中国然り、韓国然り、アフリカ然り、そして日本また然りであったのである<。>・・・
⇒上掲の段落は、民法学者の中川善之助の著作からの引用ですが、現在のキリスト教諸国はおおむね夫婦同姓は義務付けられていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93
ところ、かつての、例えばカトリック諸国が果たしてどうだったのか、調べる労力を惜しみました。(太田)
東北アジア・・・は、西アジアの中近東や南アジアのインドよりもはるかに住みやすい<が、>・・・その代表である中国の人々は、インド流の、この世は苦しみの世界であるなどということは絶対に考えなかった。
ましてキリスト教のような、人間は原罪を持つなどという考えかたは、まったくなかったのである。
それどころか、中国人は、この世を楽しいところと考えたのである。
ここが、インド人や、中近東の砂漠の人々と決定的に異なるところである。・・・
『論語』は「苦」でなく「楽」の世界である。
冒頭からして「亦た楽しからずや」ということばである。
⇒この著者の指摘それ自体もさることながら、それ以前に、「「楽」=「楽器を演奏すること」」
https://bunlabo.com/analects-do-fun-is-best/
や、「礼楽<、すなわち、>礼儀と音楽<に関しては、>「礼」は社会の秩序を定め、「楽」は人心を感化するものとして、古代<支那>の儒家によって尊重された。転じて、文化。また、文化的な生活。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BC%E6%A5%BD-151227
といったことが気になります。(太田)
中国人は、五官(五感)の快楽を正しいと認めるのである。
仏教ではどうか。
そのような五官(五感)の快楽を否定する。
それは煩悩であるとして。・・・
中国人の思考は、漢字ならびに漢字を使った文章によってなされる。・・・
まず先に物があり、それに似せた絵画的表現として漢字の字形が生れる。・・・
<つまり、>「はじめにことば(神)ありき」ではなくて、「はじめに物ありき」なのである。
だから、形而上的世界よりも形而下的世界に中国人の関心がまず向うようになる。・・・
このため、感覚の世界<が>中国人にとって最も関心のある世界とならざるをえなかったのである。
中国人が現実的であり、即物的である、ということの根本的理由はここにある。・・・
しかし、・・・いずれ必ず死が訪れる。
現世をこそ最高とする中国人にとって、これはたいへん辛いことである。・・・
とすれば、その死を恐くないものとしてなんとか納得できるようにだれかに説明してほしい、と中国人が願うのは当然である。
⇒このくだりは面白いけれど、何らかの典拠を付けて欲しかったところです。(太田)
その要求に応えて、中国人に納得できる説明を行なって成功したのが儒教なのである。
後に道教が登場し、別の角度からやはり死の説明を行ない成功する<のだが・・。>・・・」(3~4、13~16)
(続く)