太田述正コラム#14148(2024.4.12)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その6)>(2024.7.8公開)

 「儒教はけっして孔子に始まるのではなくて、その歴史は孔子の時代よりもはるか以前から始まり、そして今日に至っている・・・。
 言わば、儒教は中国史のすべてに関わっている。
 また日本においても、少なくとも〈国としての政体〉が形づくられていた時代から今日に至るまで、儒教がずっとかかわっている。
 朝鮮においても同様である。
 この点がヨーロッパにおけるキリスト教<や>・・・インドにお<ける>・・・仏教の場合・・・と異なる。・・・
 儒教と中国(延いては朝鮮・日本)との関係は、本質的に密着しており、歴史のすべてに貫流している。
 こうした歴史的なつながりという点において、中国・朝鮮・日本は一体的であり、儒教文化圏<(注7)>と言うことができる。・・・

 (注7)「中国で生まれた儒教は、周辺の朝鮮、日本、ヴェトナムなどに長い期間をかけて広がっていった。これらの地域を東アジア儒教文化圏と呼ぶこともあるが、その中でも朝鮮はもっとも儒教の影響を強く受けた地域である。日本は儒学は受け入れられたが、儒教は受けいれなかったと言われることがある。その意味は、学問として、あるいは統治者の教養としての儒教は受容したが、日常生活を律する礼の面では儒教を受容しなかったということであろう。こうした理解には異論もあるだろうが、冠婚葬祭や日常の生活規範、あるいは家族や親族制度の面で、日本のそれは非儒教的なものが濃厚である。ヴェトナムにおける儒教の需要も日本と似ている面が多く、日常生活の面では仏教の影響が支配的であった。<宮嶋博史・・・>」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-053_0.html#wh0203-053_1

 <他方、>中国・朝鮮・日本を総括して、仏教文化圏<(注8)>或いは道教文化圏<(注9)>と称するのは適切でない。・・・」(48~50)

 (注8)「仏教文化圏」で検索してもヒット数ゼロだ。「漢字仏教文化圏」については、「中国にて佛教はさまざまなプロセスを経て唐の時代まで流行、発展していった。それまでには佛教は既に外来宗教文化から脱皮し、インド佛教に取って代わった中国独特の佛教に姿を変じ、アジアに於ける佛教の中心地になったのである。そこから、佛教はさらに東漸を続け、東南アジアではベトナム、東アジアでは日本と朝鮮へと伝わり、大乗佛教の一特色たる「漢字仏教文化圏」を形成するようになった。
 その発展途上、佛教は中国の社会、伝統文化の各領域に浸透し、広汎にして深大なる影響をもたらした。政治、哲学、文学、芸術、言語、民俗、といろいろな面において、「佛(ほとけ)」の陰影がうかがえ、佛教は中国固有の儒教と道教にちょうど三足鼎(さんぞくかなえ)の喩えにふさわしいように、もう一つの「足」をつけたし、伝統文化の主流の一つに含まれるようになったのである。また、その反面、中国の伝統文化へもその影響を与えるようになり、儒・佛・道の三教合併、一種のモザイク文化形態を織り成すように至った。」
https://office.nanzan-u.ac.jp/SYLLABUS/2006/SYLLABUS/20060211343.htm
 (注9)「儒教文化圏」も、検索してもヒット数ゼロだ。なお、「道教は後漢末頃に生まれ、魏晋南北朝時代を経て成熟し定型化し、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至った。その長い歴史の中で、悪魔祓いや治病息災・占い・姓名判断・風水といった巫術や迷信と結びついて社会の下層に浸透し、農民蜂起を引き起こすこともあった。一方で、社会の上層にも浸透し、道士が皇帝個人の不老長生の欲求に奉仕したり、皇帝が道教の力を借りて支配を強めることもあった。また、隠遁生活を送った知識人の精神の拠りどころとなる場合も多い。こうした醸成された道教とその文化は現代にまで引き継がれ、さまざまな民間風俗を形成している。
 現代、全世界に道教の信徒を自認する人は3000万人ほどおり、台湾や東南アジアの華僑・華人の間で信仰されている。また、中国のみならず中国文化の影響下にあった朝鮮半島・東南アジア・日本といった地域では、道教的な文化を多く受容している。中国本国においては、五四運動や日中戦争、また中国共産党の宗教禁止政策などで下火になったが、近年徐々に復興している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99

⇒以上の、著者の全ての主張に反対ですが、とにかく、著者の言い分を最後まで聞くことにしましょう。
 なお、「道教<は、>・・・一般には、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、時代の経過とともに様々な要素が積み重なった宗教とされる。道教は典型的な多神教であり、その概念規定は確立しておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である。伝説的には、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵が教祖となって教団が創設されたと語られることが多い。
 ほかにも、『墨子』の鬼神信仰や、儒教の倫理思想・陰陽五行思想・讖緯思想・黄老道(黄帝・老子を神仙とみなし崇拝する思想)なども道教を構成する要素として挙げられる。道教は中国のさまざまな伝統文化の中から生まれており、中国で古くから発達した金属の精錬技術や医学理論との関係も深い。」(上掲)といったことを踏まえれば、少なくとも支那の人々や華僑においては、道教は「儒教」の「倫理思想・陰陽五行思想・讖緯思想」と習合している、と言ってもよさそうであるところ、著者のように、道教と儒教を切り離し、後者だけに焦点をあてる考え方には強い違和感を覚えます。
 付言すれば、漢人達は、儒教由来であっても、宗教的な部分は道教のもの、という感覚だったのではないでしょうか。(太田)

(続く)