太田述正コラム#14150(2024.4.13)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その7)>(2024.7.9公開)
「祖先祭祀と結びつく宗教性に基づく儒教の政治的・文化的影響を、有史以来、今日に至るまで受けている中国・朝鮮・日本を一つの文化圏と考えることができる。
このように〈孝とりわけ祖先祭祀を核とする儒教に拠って歴史的・宗教的に一体化されている文化圏〉というのが儒教文化圏の概念である。・・・
⇒著者は、「私は真言宗信者としてすでに受戒して<いる>」(i)と言っていますが、日本の真言宗(注10)は、ということは、当然宗祖の空海も、「孝とりわけ祖先祭祀」を旨としているんですか、どこからそんなことが言えるんですか、と、問い質したくなります。(太田)
(注10)「真言宗は即身成仏と密厳国土をその教義とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97
「即身成仏(そくしんじょうぶつ)は、仏教の修行者が「密教」の実践を通じ、今生のうちに成仏を達成すること。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F
「密厳国土<とは、>・・・大日如来・・・が教化できる範囲・・世界・・<、すなわち、> 我々が住む仏国土<であるところの、>娑婆(sahā)<のこと>である。・・・
<ちなみに、例えば、>阿弥陀如来<の仏国土は、>西方極楽浄土<であり、>・・・毘盧遮那如来<の仏国土は、>蓮華蔵世界<である。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%9B%BD%E5%9C%9F
私は、分りやすく、孔子を境にして・・・孔子の前を「原儒時代」、孔子を含めて孔子以後の或る時期を「儒教成立時代」と名づけておくことにする。
そ<の上で、>儒教史をつぎの4時期に分けることにする。
(一)原儒時代、(二)儒教成立時代、(三)経学時代、(四)儒教内面化時代。・・・
シャマニズム<(注11)においては、>・・・いろいろな神霊を招き降ろすのではなくて、圧倒的にその多くは自己の祖先の霊である。・・・
(注11)「<支那>大陸の東北部で流行っているシャーマンは、出馬仙と呼ばれている。その出馬仙は、原始宗教のシャーマニズムの伝統を受け継いでおり、主に四つの動物たち(胡黄嫦蟒)とグループを形成し、一緒に占い・除霊・儀式活動していくこと。キツネ、ヘビ、イタチ、など修行した動物霊が、人間の体に憑依することで、人に癒しの能力を与えるという。
近年、<支那>の東北部では、占いの能力もなくシャーマンを偽装して詐欺する人が多く、本当の出馬仙が探せないぐらい少なくなっていると言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
それが祖先崇拝とつながっていることは言うまでもない。・・・」(50~51、55)
⇒「注11」を踏まえれば、支那では、祖先霊が憑依するシャーマンは絶滅してしまったのか、それとも、最初からなかったのか、とも受け止められるところ、著者は、どう申し開きをするのでしょうね。
著者が、日本のシャーマン、しかも、現存する、ユタ、イタコのうち、昔からいわば何でも屋であったらしいユタ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BF
とは違って、「本来は死者あるいは祖霊と生きている者の交感の際の仲介者として、氏子の寄り合い、祭りなどに呼ばれて死者や祖霊の言葉を伝える者だったらしい」イタコ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%B3
のイメージを、下心もこれあり、一方的に支那のシャーマンに投影してしまっているのではないでしょうか。(太田)
「加藤常賢の説に拠れば、シャマンの大半は超能力があるわけではなく、祈禱の依頼者の立場をあらかじめ知って、それに媚びるような対応をしたという。・・・
これに対して、そうであってはならないとして、意識改革を起そうとする集団が登場する。
その集団が原始儒家と呼ばれ、その代表的人物が孔子であった。
この孔子たち原始儒家によって、原儒を越えて儒教が成立することとなる。
原儒が、遠いその昔、神霊なものと人との間をつなぐ祈禱の仕事(シャマン)や、さらには葬送儀礼を職業としていたことは、今日、学会の定論となっている歴史的事実である。・・・
⇒先に当たり前の話にわざわざ加藤某という「典拠」を付した著者が、この肝心な箇所に「典拠」を付さないのはこれいかに? そもそも、「儒」には、シャーマン的な成り立ちこそあれ葬送儀礼がらみの成り立ちないし意味が全くない(注12)、以上、「典拠」は不可欠ですが・・。
(注12)「①「学者(学問の研究を仕事としている人)」②「学問を教える人」③「孔子の教えを研究し、それに基づいて行動している学者」・・・④「孔子の教え」⑤「孔子の学派(学問上の流派・区分)」・・・⑥「弱い」、「臆病」⑦「うるおす」、「ぬらす」(同意語:濡)⑧「やわらか」、「やさしい」⑨「背が低い」(例:侏儒)
成り立ち<については、>・・・会意兼形声文字です(人+需)。「横から見た人」の象形と「天の雲から水滴がしたたり落ちる象形とひげの象形」(「ひげをはやした雨乞いする巫女」の意味)から、「おだやかな人」、「学者」を意味する「儒」という漢字が成り立ちました。」
https://okjiten.jp/kanji1867.html
私なら、さしずめ、「東洋学者の白川静は、・・・『孔子伝』・・・1991年<、の中で、>・・・紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
を典拠にしますが、それでもなお、「今日、学会の定論となっている」の典拠が、「学会」の定義・・日本の、等・・と共に必要です。(太田)
ただし、孔子は両親ともに儒というような、そういう意味での純粋な儒出身ではない。
母こそ儒ではあったが、父は平凡な農民であったから、両方の血を受けついでいる。
⇒「孔子<の>・・・母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。・・・貝塚茂樹<によれば、>・・・父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
というのですから、孔子の母親についても「儒」と言い換えて欲しくなかったですし、父親については、典拠を付していない以上、著者の勘違いかミスプリだと断じざるをえません。(太田)
しかし、孔子自身、自分を儒と称したのであるから、儒である。
ただし、孔子は明らかに自分とそれまでの儒(原儒)との相違を意識しており、また、めざそうとする儒のイメージが異なっていた。
老年期の孔子は、子夏(しか)という青年弟子に、「なんじ、君子儒となれ、小人(しょうじん)儒となることなかれ」(『論語』雍也(ようや)篇)と言い(注13)、君子について、ずいぶんと多くのことを述べている。
(注13)「13.子謂子夏曰、女為君子儒、無為小人儒。」
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/rongo006_2.html
多く述べているということは「君子」の概念、「君子」のイメージを新しく創り出そうとする努力の跡を示している。・・・」(56、58)
(続く)