太田述正コラム#14152(2024.4.14)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その8)>(2024.7.10公開)

 「父が亡くなったとき、孔子は幼かった<が、>・・・母の死のときは10代後半であり、・・・母の死を通じて十分に死の実感があったことであろう。
 そして晩年、子の伯魚(はくぎょ)を亡ない、愛した高弟の子路や顔淵(がんねん)もまた世を去ってゆく。
 顔淵を失ったときの孔子の落胆ぶりは、『論語』にまざまざと記されている。・・・
 孔子は死の実感を通じて、孝の生命論を自覚した、と私は考える。・・・
 死にゆく者の周辺にいる親しい者は、死にゆく者にやがて来たる死を前にして、いやおうなく、自分もまた死を現実として実感する。
 その場合、重要なことは相手と〈親しい〉という関係である。・・・
 なるほど「汎(ひろ)く衆を愛す」(『論語』学而篇)<(注14)>、すなわち「汎愛(はんあい)」ということばがある。

 (注14)「6.子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文。・・・[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『若者たちよ、家庭に入れば親に孝行を尽くし、家庭を出れば地域社会の年長者に従順に仕え、言行を慎んで誠実さを守り、誰でも広く愛して人徳のある人格者とは親しくしなさい。これらの事を実行して余力があれば、そこで初めて書物を学ぶとよい。』」
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/rongo001.html

⇒「2.子曰、不仁者不可以久処約、不可以長処楽、仁者安仁、知者利仁。」(里仁篇)
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/rongo004.html
で「仁者」という言葉が使われているのですから、「者」を使っていない「汎愛衆而親仁」の「仁」は「仁者」ではなく、単に「仁」なのであって、「誰でも広く愛して人徳のある人格者とは親しくしなさい」という趣旨ではなく、「誰でも広く愛せば人徳のある人格に自らなることができる」という趣旨ではないでしょうか。
 (「親」には、「みずから。みずからする。」という意味がある
https://dictionary.goo.ne.jp/word/kanji/%E8%A6%AA/
ことを思い出してください。
 漢文は、昔の支那人にとっても多義的だったようで、例えば、「荀子は、「里仁為美」の部分の「仁」を観念的な徳性としての「仁」ではなく、具体的な儒教を体得した「仁者」と解釈し<た>」
https://esdiscovery.jp/knowledge/classic/rongo004.html
というのですが、これは、私のような解釈・・「仁」を観念的な徳性としての「仁」と解する・・だって成り立ちうる、ということです。)(太田)

 また「博愛」を「仁」(愛)とも言っている。
 しかし、原始儒家の時代では、そういう広い愛、抽象的な愛は、一般的ではなかった。
 と言うのは、孔子の後に登場した墨家(ぼくか)は、儒家を批判する立場をとったが、墨家は「兼愛」(一種の博愛)を主張し、儒家の愛は偏よった「別愛」であると言っているからである。
 「別愛」とは、「愛」する相手を区「別」するということである。
 ではどのように区別するのか。
 儒家は、愛情は親しさの度合いに比例するとする。
 すなわち、最も親しい人を最も愛し、そのあと、親しさが減じてゆくのに比例して、愛する気持ちが減じてゆくとする。
 しごく常識的な考えである。
 そして孔子はこう考える。
 人間にとって最も親しい人間とは親である。
 だから人間はだれよりも親を最も愛するのがしぜんだ、と。
 だから、親から遠くなってゆく家族、或いは親族に対して、その割合いで愛情が薄くなってゆくとする。・・・
 これは、現実的そして常識的な中国人に最も納得できる規準となる。」(71~73)

⇒儒家/儒教はいざ知らず、孔子自身がそんな趣旨のことを言った的な話は『論語』等の中には出てきません。
 典拠を付けるのがお好きでなさそうな著書が、わざわざ「汎愛」には典拠を付けてこの、著者にとってより重要な話の方には典拠はつけていない、ということは、そちらの方については典拠がない、ということでしょう。
 ということは、墨子の儒教批判は、勘違いによる言いがかりだということです。
 「儒家は愛に差等を設けることを是認するから,子の親に対する愛である〈孝〉の実践が仁を実現する第1段階であるとされ,身近なものへの愛から出発して,その愛の及ぶ範囲を順次拡大してゆけば,終極的には人類愛に到達すると考える。〈兼愛〉(無差別の愛)を主張する墨子からはこの〈仁愛〉は〈別愛〉(差別愛)だと批判される。家族愛や愛国心は必ずしも人類愛と相いれるものではないことからの批判である。」(出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」も、墨子の言を鵜吞みにした間違いです。)
 この点は置いておいて、墨子、及び、その主張は以下の通りです。↓
 「墨子は魯国に生まれた育ったと考えられるので、孔子の儒教から多くのものを学んだであろうが、孔子が下級武士のでであったのに対し、墨子は一般庶民、あるいは手工業者の出身であったことから、しだいに独自の道をたどるようになった。」(主に貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫 p.460-466 による)
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-057.html
 「また戦争を社会の財貨を破壊するものとして否定し<た>(非攻)<。>
 <そして、>戦争のない平和な時代を招来するために、武器を開発し、それを利用して小国を応援し、戦争をしかける大国に対抗した<。>・・・
 孔子の説いた儒教は、理想的な政治は礼楽による統治であると説いたので、伝統的な文化を守る一種の文化主義であったが、墨子はそれを貴族の思想に過ぎないとして否定し、伝統的文化に対しては正面から挑戦して破壊し去ろうとした。その点でも異端的であった。戦国時代の中期には儒教と対抗する思想として幅広い影響力をもっていたが、戦国が七雄の対立の時代から全国統一へと向かう間に、旧来の儒教思想が復活し、墨子の思想は没落してしまい、秦漢時代にはほとんど忘れられた状態となった。」(同前)
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-057.html 前掲

(続く)