太田述正コラム#14158(2024.4.17)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その11)>(2024.7.13公開)
「『論語』に現われる君子<(注19)>・小人<(注20)>は、シャマンを指す場合もあるが、その大半は官僚予備軍(孔子の推薦によって為政者として就職した)として孔子の下に学びに来た人々である。
(注19)「最古の歌謡『詩経』にみえるこの語は種々の意味を示す。(1)身分の高い人。「君子の依(よ)る所。小人の腓(したが)う所」(馬車についていう。采薇(さいび))。(2)夫または夫となるべき男。「君子于(ここ)に役す」(君子于役(うえき))。「未(いま)だ君子を見ず」(草蟲(そうちゅう))。(3)徳の高い人。「斐(ひ)たる君子有り」(淇奥(きいく))。(1)(3)の用法では「小人」に対する。孔子も(1)(3)両義に用いる。「君子の徳は風。小人の徳は草。草これに風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す」(『論語』顔淵(がんえん)篇(へん))の場合、君子は為政者。「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁(りじん)篇)というときは有徳者の意味。そして「君子は器ならず」(為政篇)というとおり、幅広い教養人。職人でない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E5%AD%90-58330
(注20)「君子(くんし)は和(わ)して同(どう)ぜず、小人(しょうじん)は同じて和せず。」(子路篇)、「君子は義(ぎ)に喩(さと)り、小人は利(り)に喩る。」(里仁篇)、君子は泰(やす)らかにして驕(おご)らず、小人は驕りて泰らかならず。」(子路篇)、「君子は諸(これ)を己(おのれ)に求(もと)め、小人は諸を人(ひと)に求む。(=立派な人間は、つねに自らを反省して自己修養に努める。つまらない人間は、何事も人に責任をなすりつけようとする。)」(衛霊公篇)、「君子は上達(じょうたつ)し、小人は下達(かたつ)す。(=立派な人間は、さらに上に向かって進み続ける。つまらない人間は、下へ下へとなりさがっていく。)」(憲問篇)
https://note.com/kanshikanbun/n/n4183e91281f5
⇒これは違いますね。(太田)
それら弟子に対して、孔子は、小人(知識人)であってはならない、君子(教養人。知識人プラス徳性豊かな人)であれ、と求め続けたのである。・・・」(94)
⇒これも違いますね。(太田)
⇒⇒要は、孔子の君子は私の言う縄文人(人間主義者)、小人は私の言う普通人、である、と言うのが私の考えなのです。
蛇足ながら、「もっとも理想の聖人とされるのは、堯と舜、二人の聖天子である。続く「三代」と言われる時代の統治者、すなわち夏王朝の創業者である禹、殷王朝の創業者である湯王、周王朝の創業者である武王もまた聖人として位置づけられ、堯と舜をあわせて「堯舜三代」と呼ばれる。また、周王朝の創業に力を尽くした周公旦、儒学の大成者である孔子もまた聖人として位置づけられている。孟子は聖人ではないが、それに次ぐ存在であるとして「亜聖」と呼ばれる。宋代になると、士大夫たちは孔子・孟子を継ぐ聖人となることを目指すようになり、「聖人、学んで至るべし」というスローガンのもと、道徳的な自己修養を重ねて聖人に到る学問を模索した。明代の陽明学では「満街聖人」という街中の人が本来的に聖人であるとする主張をし、王や士大夫のみならず、庶民に到るすべての人が聖人となることができる可能性を見いだした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E4%BA%BA
の(「君子」ならぬ)「聖人」についてですが、以下の典拠執筆者の素性が余り定かではないけれど一応信用することとして、「聖人」が登場するのは、『論語』中、「子(し)曰(いはく、)聖人(ひじりは)吾(われ)得(え)而(て)之(これを)見(み)弗(ざる)矣(なり。)君子(よきひとなる)者(ものを)見(みるを)得(うる)者(は、)斯(かかるは)可(むべ)矣(なり。)」(述而篇)、の一か所のみで、しかも、否定形で用いられていますし、このくだりの直後に使われている「「虛」の字が論語の時代に存在しない<ことから、>本章は少なくとも、漢帝国以降の儒者による加筆がある。」上、仮にこの部分が後世の捏造ではなかったとしても、「「聖」は・・・”言語にならない天命を理解し、言語化して人に伝えることの出来る者”を意味する。」(九去堂(注21)「『論語』全文・現代語訳」より)
https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/jutuji/172.html (「」内)
(注21)早大修士(東洋史)。「編集者・会社経営者などを経<験>」(上掲)
、つまりは、ユダヤ教における預言者を彷彿とさせるところ、私としては、取り敢えずは、「聖人」のことは忘れることにします。(太田)
(続く)