太田述正コラム#14160(2024.4.18)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その12)>(2024.7.14公開)
「孔子のころは『易』と儒家とは関係が少なかった<。>・・・
⇒ここは、無典拠でも同感だ、と、申し上げておきましょう。(太田)
当時、・・・上級の行政官僚・・・の教養科目として六芸<(注22)>(りくげい)というものがあったとも言われている。
(注22)「『周礼』<(コラム#13824)>は、周代の制度を後の時代に想像・理想化して著したものと考えられている。その中で、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養を六芸とまとめた。その「地官・大司徒」に、礼・楽・射・御・書・数を六芸とする。それぞれ、礼儀、音楽、弓術、馬車を操る術、書道、算術である。同じことを、「地官・保氏」では、五礼、六楽、五射、五馭、六書、九数と列挙する。
大司徒、保氏は『周礼』の中にある官職で、大司徒は、万民に六芸を含めた技芸や道徳を広めることを責務とする。その配下にある保氏は、貴族の子弟を集めて六芸を教える。こうした職務は歴史的事実ではなく、『周礼』の創作である。だが、漢代以降長く周の時代の実際の制度だと信じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%8A%B8
六芸とは、礼・楽・射・御(馬車の御しかた)・書(書法)・数(算数)である。
⇒『周礼』は偽書でなかったとしても戦国時代末期に成立した可能性がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%A4%BC
一方、孔子は春秋時代の人間ですが、孔子の時代においてもこの六芸が官吏が身につけるべきものとされていてもおかしくはありません。(太田)
孔子は儒家であるから、とりわけ礼・楽と、重要な文献の『詩』『書』を重視したのであろう。
しかもそれらは孔子の得意とするところであった。
⇒文献たる『詩』『書』と芸たる『詩』『書』は似て非なる代物ですが、それはさておくとして、暴力を用い(後出)、宮廷にあった時にはしばしば戦争を提起した孔子(注23)、しかも、父親が軍人であった孔子、が、射や御を重視しなかったというのが本当であれば、その理由が私には分かりません。(太田)
(注23)「紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季孫氏に推薦したうえで、三桓氏の本城の城壁を破壊する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった。・・・紀元前483年、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を勧めるが、実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
そこで孔子は、行政官僚層を養成する塾を開き、教師となったのである。・・・
例えば、魯国の都において、孔子塾に対して、少正卯<(注24)>(しょうせいぽう)という人物の塾も相当な勢力があったらしい。
(注24)?~BC496年。「春秋末期の魯の大夫(たいふ)。少正は官名、卯は名。当時「魯の聞人(ぶんじん)」(名を知られた声望の厚い人)と高く評価されていたが、紀元前496年、魯の司法・警察を統(す)べる大司寇(だいしこう)に就任し宰相の職務を代行することとなった孔子に「政(まつりごと)を乱す者」として誅殺された、と伝えられる。
孔子は大司寇就任7日にして彼を殺したが、門人(子貢(しこう))に詰問(きつもん)された。孔子はその理由として、人間がもつ悪は、盗みは除外して五つの悪を列挙できる。そのうち一つがあっても、道理を熟知した君子の誅罰を免れないのに、少正卯はそのすべてを兼ね備えている、と指摘した。さらに、少正卯の所在は徒党を組み不穏な群衆を募ることができ、弁説は衆人を惑わすことができ、実力は謀反して自立できるほどである。少正卯は「小人の桀雄(けつゆう)」(つまらぬ者たちの頭)であって誅殺は免れない、ともいった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%91%E6%AD%A3%E5%8D%AF-1545515
「少正卯<は、>・・・<孔子の>弟子を顔回以外全員取った<。>・・・
弟子が少正卯についた話は後漢の王充『論衡』講瑞篇に初めて見え、また孔子が少正卯を殺した話は『荀子』宥坐篇に初めて現れ、それ以前の文献には記さない。したがって、いずれも後世の創作の可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90 前掲
孔子にとってライバルである。
だから、孔子は50歳をすぎて魯国の閣僚となったとき、ライバルの少正卯をただちに暗殺している。
おそらく少正卯の塾を解体するためであっただろう。・・・」(95、98~99)
⇒孔子が少正卯を誅殺した話が事実ではなかったとしても、「紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。」(上掲)という話もあり、孔子が暴力の行使を厭わない人物である、との見方がなされてきたことは事実のようである以上、孔子が、「射」や「御」、つまりは、暴力や戦争、については教えなかったとされていることが、私には不思議でならないのですが・・。(太田)
「ふつう、孔子の弟子の内、(一)心の内省や礼の内容・目的を重んじた実践派・哲学派であった、曽子<(注25)>の系統から、後に孟子が登場し、(二)知識や礼の形式を重んじた文献派・学術派であった子夏<(注26)>(しか)の系統から、後に荀子が登場したと言われる。
(注25)BC505~?年。「儒教の教説では、十三経の一つ『孝経』は、曾子または曾子の門人が孔子の言動を記した書物とされる。朱子学においては、四書の一つ『大学』の著者とされる。・・・
曾子の弟子に子思が、その子思の弟子に孟子がいたとされる。・・・
子思は孔子の孫であるが、祖父・父ともに幼い頃に亡くなったために、曾子の門下で学んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E5%AD%90
(注26)BC507~BC420年。「今文経学では六経伝承の淵源を子夏に求めている。彼の学風からは後の荀子へと受け継がれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%A4%8F
その結果、孟子は人間の心にある良心を根拠にして、性(人間が生まれつき備えているもの)は善であると主張した。
いわゆる性善説という倫理学説である。
これに対して、荀子は、人間の心は善とは限っていないとして、良心という自律的なものではなくて、礼に従うという他律的なものによって、しだいに善にしていこうという考えかたをした。
いわゆる性悪説という倫理学説である。」(100)
⇒どうして、「その結果」なのかさっぱり分かりません。(太田)
(続く)