太田述正コラム#14162(2024.4.19)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その13)>(2024.7.15公開)
「始皇帝が登場したころ<の>・・・秦王朝<における>封建制から郡県制へ<というのは、>大づかみに比喩的に言いかえれば、地方独立自治制から中央管理集権制へという変革である。
もちろん、この中央官吏集権制は、近代国家の中央集権制とは異なる。
なぜなら近代国家は、個人・核家族を基礎として、その上に成り立っているのに反して、郡県制という中央集権制は、家族(それも核家族ではなくて、一族という、同姓のもとに集まる共同体)を基礎にして成り立っている。
だから、郡県制中央集権国家と近代的中央集権国家とは、疑似的ではあるが実際は異なる。・・・
<いずれにせよ、>通貨・習慣・文化といった個別性の強いものまでが、共通するものを求めるようになってくる。
通貨・道路幅・文字・度量衡といったものは、ばらばらでは不自由である。
当然、共通するものを求めてくるようになる。・・・
⇒秦王朝を「始皇帝が登場したころ」の秦と天下統一後の秦、と受け止めるとして、「郡県制という中央集権制は、家族(それも核家族ではなくて、一族という、同姓のもとに集まる共同体)を基礎にして成り立っている」、私の言葉に置き換えれば、「郡県制という中央集権制は、一族郎党を基礎にして成り立っている」というのは誤りです。
というのも、始皇帝(在位:BC247~BC210年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
は、その1世紀ちょっと前の秦の孝公(在位:BC361~BC338年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
が商鞅(BC390~BC338年)にやらせたところの、君主独裁化を図った変法において、「一つの家に二人以上の成人男子がい<た場合は>分家<させる>」(第一次変法)、「父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる」(第二次変法)、ことによって、「戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
ところ、この孝公時代から、秦は、「個人・核家族を基礎として」とまでは言えなくとも、少なくとも、「核家族を基礎として」「その上に成り立っている」体制にはなっていた、と、言えそうだからです。(太田)
法家が登場するはるか以前から、法律が道徳とともに古くからその一部として併存してきていたことは言うまでもない。
中国では、ただその地位が道徳よりも低かったのであるが、大国家を形成してゆく過程で、急速にその地位が上がり、ついには道徳の上位にまでのしあがってきたのが、秦の始皇帝の時代であり、それを推進したのが韓非子ら法家<(注27)>であった。」(103~104、111)
(注27)「主な法家の人物<:>商鞅 申不害 慎到 韓非 李斯<。>・・・
法家の思想は、秦が滅びた後の漢王朝や歴代王朝にも、表立っては掲げないものの受け継がれ、「中国法制史」として結実した。
前漢の高祖劉邦は当初は「法三章」として法を簡素化していたが、国家運営に支障が出たために秦の法の中から時勢にかなったものを選ぶ形で「九章律」を定めた。
また前漢には、法家と道家が混ざったような「黄老思想」が流行した。李斯の孫弟子にあたる賈誼の著作には、儒家思想(とりわけ『荀子』の礼思想)と混ざった形での法家思想が説かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%B6
⇒「商鞅<は、>・・・法家思想を基に秦の国政改革を進め<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
のですから、「法<が>・・・道徳の上位にまでのしあがってきたのが、秦の始皇帝の時代であ<る>」もまた誤りです。
ところが、「核家族を基礎と」した法治的国家は、秦が漢によって打倒されると、「注27」から分かるように法治的国家ではあり続けたものの、「核家族を基礎と」しなくなってしまい、戦国時代より前へ先祖返りしてしまうのです。
(法治「的」国家としたのは、法制定権者は法に羈束されない(注28)のと、法の不遡及なるルールが存在しない(注29)、からです。)(太田)
(注28)天下統一前だが、「燕の使者である荊軻が隠していた匕首で秦王の政(後の始皇帝)を殿上で暗殺しようとした際には、秦王は慌てて腰の剣が抜けない中で匕首を持った荊軻に追い回されていたが、臣下が秦王の殿上に武器を持って上がることは法により死罪とされていたため対応に難儀した(最終的には御殿医が荊軻へ薬箱を投げつけ、怯んだ隙に秦王が腰の剣を抜き、荊軻を斬り殺した)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%B6 前掲
すなわち、秦王(だけ)は武器を携行していた。
(注29)「韓国では戦前の日本が朝鮮を併合していた時代に得た土地や利益を没収するという法律を2004年・2005年に制定し、施行しています(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法・親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)。併合していたのは1945年までですから、60年後に突然、没収されたのです。・・・
60年ということは、その財産は没収された当人が当時、取得したものではなくて、親や祖父の代から受け継いだものです。これを没収するっておかしいですよね。無茶苦茶です。・・・
儒教国<・・支那文化圏と言い換えた方が適切(太田)・・>では道徳が大事です。道徳が大事すぎて「法律より道徳」なんです。法律より道徳が大事だから、「事後法・遡及法は原則不可」という法治国家のルールを、「反日」という道徳が超えていくんです。」
https://nihonsinwa.com/page/2535.html
韓国は、この点では支那と同じであると言ってよかろう。
つまり、一貫して、支那においては、法はついに道徳から完全に独立することなく推移してきたのだ。
(続く)