太田述正コラム#14164(2024.4.20)
<2024.4.20東京オフ会次第(その1)>(2024.7.16公開)

1 始めに

 私を除いて6名出席。

2 TSY事前提出コメントより

 ・・・<国際基督教大学時代に>源了圓<(注1)>教授の下で、孟子を読んだが、そのときもう一人いた学友は、天津外語大学のかくれんゆう氏。

 (注1)みなもとりょうえん(1920~2020年)。京大文(哲学)卒、同大修士(?)、日本女子大教授、東北大文教授、同大名誉教授、国際基督教大教授。「専門は近世日本思想史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BA%86%E5%9C%93

 孟子の研究をされていた。鄧小平時代の中国は孟子の研究は認めていたことの実例。・・・

⇒ほう。(太田)

 孔子は戰爭による人間性の毀損の問題の解決を礼で企画した<という>・・・下りを読んでいて、高橋和巳<(注2)>の随想を思い出す<。>

 (注2)1931~1971年。京大文(中国語中国文学)卒、同大博士課程単位取得満期退学、明大文助教授、京大文助教授。「『悲の器』(1962年)で文壇に登場。主要作品に『憂鬱なる党派』(1965年)、『邪宗門』(1966年)などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%92%8C%E5%B7%B3

 現代の儒者たる高橋の先生、吉川幸次郎は、高橋が父親の死を報告したとき、椅子からたちあがり、中国に学んだ「礼」を感じさせるお悔やみの文言と態度をとった。師の「礼」は弟子を動かし、「父の死にニヒルな境地にいた私は、それが人生最大の悲しみであることを自覚させられ、泣く事ができた」こういう主旨のことを書いていた。ややオセンチだし、京大的封建臭はするが、礼により感情が回復することがあることを、僕はこの随想で教えられた。・・・

⇒ほほう。(太田)

 莫言の豊乳肥臀をよんだが、ふろしきは少し大きいが、中国小説の伝統のまったくの踏襲。おちこぼれ男のぱっとしない日常些事がえんえんと工夫なく描写される。母親だけが働き、男達は夫も息子もぶらぶらしている。官人の末裔なので。・・・

⇒果たして、「中国小説」に「伝統」ありや?(太田)

 <「(5)程明道(程顥(ていこう))(1032~1085年)」のところだが、>これは太田さんがおかしい。
 日本の人-間主義には体を医学のように対象としてとらえ、分析する視点は皆無。
 なので、程明道は新基軸。
 新基軸をひらけるほどの知的活動力旺盛な人だったから、日本書紀をみたかもとなった<のでは?>・・・

⇒程明道は人体の諸部位を比喩的に使っただけでは?(太田)

 「和」 禾は穀物。右は口。豊富な穀物を食べる人びとを連想する。
 実に聖徳太子の漢字選択は見事。
 生態学的に古事記と日本書紀をよむと、また発見がありそう。
 大乗仏教のいきとしいきるものは、ジャータカも、動物くらい。
 日本人は稲も建築材料たる木材も、土台の石も、刀の金属も、どこか人-間主義の援用で擬人化してみることができる。
 聖徳太子の時代に、人間の構成物質は、地表の物質に直接由来し、地表の物質は宇宙に由来するとかいう歴史的天文学世界観や、地表の物質を植物や細菌や菌類や食糧になる動物たちと、共有しながら生命はあるという生態学的(種社会の縦の連携)自然観があれば、太子はとりいれることができる。
 あれ、気がついちゃった。人-間主義が成立するためには、
 高度な自然観察とその観察知見の利用が必要で、日本だけがその条件をみたしていた。不完全な人-間主義は他文明でも可能だが、本格的な人-間主義は日本独自だったのはここにある。
 さらにいうと、日本の高度な自然観察能力は、そのまま文献や、口頭での外国人の思考に対する鋭敏な観察能力の素地になっていたかもしれない。
 とすると、日本文明のかぎは、精緻な観察を好む根強い指向性にある。これはオタク<(匠)>として今も脈々と継承されている。
 どうでしょう。日本文明を正しく「解いた」気がしているのですが?
 日本の石器の加工の精緻さ、骨を加工して作った針の精緻さが、僕の思いつきの根拠です。

⇒私の説を補強していただいた格好であり、感謝。(太田)

(続く)