太田述正コラム#14166(2024.4.21)
<2024.4.20東京オフ会次第(その2)>(2024.7.17公開)
3 八幡市用講義レジメ骨格素描(第2稿)
出席者には配布しなかったが、表記に基づいて話をしたところ、ディスカッション(コラム#14159)に公開した第1稿に付け加えた主要箇所は下掲の通り。↓
第二部 先の大戦と戦後日本
1 始めに
2 先の大戦
(1)隋が漢人文明の主となった衝撃
支那で、漢人文明を形成したところの、江南文明系を支配者とする漢が解体され、魏晋南北朝時代(三国時代→五胡十六国時代→南北朝時代)を経て、ついに、漢人化したところの、騎馬遊牧民の鮮卑系を支配者とする隋が漢人文明の主になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
ヤマト王権の支配層は弥生人系で、遡れば江南文明系だった・・江南はジャポニカ米稲作発祥地だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
ことを想起せよ・・こともあり、故郷と日本の双方を案じる強烈な危機意識を抱いたと私は見ている。
(ヤマト王権の朝貢先は、東晋を含め、旧江南文明地域の諸王朝・・南北朝時代は南朝の宋、南斉、梁・・のみ。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B )
(2)聖徳太子コンセンサス
そこで、厩戸皇子は、単なる外国たる大国の隋に対等の立場で遣隋使を送り、仏教の勉強目的に藉口して要員を派遣し、騎馬遊牧民系勢力に対する軍事的対処方法やこの対処を行う戦士創出方法を密かに探らせると共に、仏教についても、かかる戦士が毀損されるであろう縄文性(人間主義性)を修復する方法を仏教の中から見出だせないか、を調査させることにした、と、私は見ている。
(例えば、仏教に関して言えば、遣隋使の1回目は600年だが、日本の最初の仏教寺院・・飛鳥寺(法興寺)・・が百済の技術者の助けを借りて596年に完成し、百済僧も含めて「開業」している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%AF%BA
ことから、仏教のソフトもハードも、大金を使って隋に直接赴いて学ぶ必要などなかった筈だ。)
そして、この遣隋使の持ち帰った情報も踏まえ、周時代の邑制
https://kotobank.jp/word/%E9%82%91%E5%88%B6%E5%9B%BD%E5%AE%B6-144775
なる封建制(点の支配+単層主従関係)もどきではなく封建制(面の支配+重層主従関係)・・結果的には欧州の封建制(feudalism)
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6-627435
とほぼ同じもの・・を形成することを決め、また、法華経が慈悲行(人間主義的行動)を悟り(人間主義化)に至るための方法として推奨していることを知り、また、維摩経と勝鬘経が、それぞれ、男性の在家、女性の在家、が悟ることを説いていることから、三経義疏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F
を著し、将来、日本で生まれるであろう戦士やその母親、妻、に対し、在家のまま、慈悲行を行うように促した、とも。
その上で、封建社会/戦士、を生み出すための構想の策定と、慈悲行の実践が戦士にとって日常的にはハードルが高いことから、日常的な方法をやはり仏教を手掛かりに探し出すこととし、この方針に基づき、その後の天皇家も、隋が唐に代わってからも遣隋使ならぬ遣唐使の派遣を続けることにした、とも。
しかし、その前に、天智政権の時、まだ何の準備も整っていなかった日本は唐と戦う羽目になり、白村江での惨敗を喫し、日本は事実上、一時的に唐の占領状態となったのだが、新羅が唐に反旗を翻してくれたおかげで、日本はすぐに独立を回復できた。(コラム#?)
なお、聖徳太子コンセンサスを裏付ける典拠は存在しないところ、そんな文書を事柄の性格上残すわけにはいかなかった、と、私は見ている。
(以下、紹介するところの、桓武天皇構想、と、杉山構想についても同様だ。同じく以下、紹介するところの島津斉彬コンセンサスは事実上公開されているが・・。)
これは、以下、紹介する、
(3)桓武天皇構想
ところが、天智朝に取って代わった天武朝は、聖徳太子コンセンサスに反し、唐を理想視し、唐の諸制度を日本に直接導入しようとした。
(朝鮮半島において、(地名まで支那風に全とっかえする形で)大真面目に本当に導入し、その後も日本は実質的な導入がなされないまま軌道修正が行われたところ、全く軌道修正がなされないまま20世紀の日韓併合まで漫然たる国家運営を行い続けてしまう原因を作ったのが新羅だ。
これは、プロト日本文明的文明から漢人文明へと世界史的に見ても空前絶後の自発的な文明の切り替えであったのであり、それを、新羅に続く高麗も、更に続く(李氏)朝鮮も踏襲してきた結果が、現在の北半分の金家独裁王朝であり南半分の反日カルト国だ。
他方、支那では、中共が、建国前から日本文明の日本を模範としきたところ、建国後は、とりわけ鄧小平が最高権力者になったからは、日本から学ぶ戦略をとってきており、習近平が最高権力者になってからは、更に一歩を進めて、私の言うところの、日本文明総体継受戦略を推進すると共に日本を再軍備させるための反日政策をとるという、日本から見てマッチポンプ的対応を行なってきている。)
この天武朝を巧妙に打倒して天智朝を復活させた光仁天皇を継いだ桓武天皇は、藤原氏と連携しつつ、・・・
この際、順不同で上記に補足しておく。
一、厩戸皇子が『勝鬘経義疏』を執筆したからといって、女性が悟ること・・人間主義者になること・・ができると本当に考えていたかどうかは分からない。
推古天皇に配慮して心ならずも執筆したのかもしれないからだ。
(続く)