太田述正コラム#14168(2024.4.22)
<2024.4.20東京オフ会次第(その3)>(2024.7.18公開)

二、三重構造モデル(コラム#14165)を採用すれば、「ヤマト王権の支配層は弥生人系で、遡れば江南文明系だった」は、「ヤマト王権の支配層は、江南文明人と朝鮮半島南部人との混血の弥生人系、と、江南文明人の渡来人系、だった」に変更することになりそうだ。

4 オフ会次第

O:次のオフ会では、八幡市での講義の2回分を圧縮して「講演」するつもりだが、その更に次のオフ会では今回の続きのインド篇をやるのが筋であるところ、多分ムリだ。
 トシで英語の本を読むのはしんどいので、日本語の本を何冊かたたき台にしたいのだが、こいつがみあたらないので・・。
 大学でインド哲学やら趣味で仏教やらを齧ったり(、インドで新聞の特派員をやったことがあったり)した日本人は大勢いるだろうに、実存的疑問を解きたいといった思い入れがなくたって、人口が世界一になってしかも経済高度成長中のインドの戦後や現在をテーマにした本を書いて一儲けしようとする人くらいいないのか、と言いたくなる。
 インド人だって学術書は英語で書くから、材料集めに苦労はしない筈なのに・・。
A:それなら、その代わりに、たとえば、安土桃山時代にあんなにキリシタンが増えたのはなぜか、そもそも、聖書の邦訳がまだなかった筈なのに、なんてテーマはいかが。
 ローマ帝国にキリスト教が広まった不思議さの解明もついでにやったらどうだろうか。
 ところで、太田コラムで腑に落ちないのは、一つは、岸カルトが、とりわけ、その創始者の岸信介が、中共への宗主国移行まで果たして考えていただろうか、もう一つは、非集団主義って一体なんだ、だ。
O:1992年に、1989年の天安門事件後の欧米からの孤立の苦境下にあった中共に救いの手を差し伸べるべく、平成天皇の訪中を実現させたのが象徴的だ。
 これは、当時の、そして現在の宗主国である米国の意向に逆らって断行されたはずだ。
 (当時の首相は宮澤喜一、外相は渡辺美智雄、だが、外務次官が小和田恒(?!)だったことが注目される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%A8%AA%E4%B8%AD 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%BE%8E%E6%99%BA%E9%9B%84
 なお、岸信介が亡くなったのは1987年であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
それからさほど時間が経っていない。
 私は、この訪中は、実は言い出しっぺは天皇であり、この天皇の意向を受けて当時の皇太子妃(現天皇)の父である小和田次官が根回しに動いたからこそ実現した、と想像するに至っている。
 だとすれば、昭和天皇家、つまりは昭和天皇、の意向が早い時点から宗主国移行だった可能性が高いのであって、昭和天皇の意向を岸信介が知らなかった筈はなく、しかも、私見では、支那通であった岸が、中共(支那)の将来の超大国化を予見できなかった筈がなかったところ、その点でも昭和天皇と意気投合していた、と思うのだ。)
 次に、非集団主義だが、一方の集団主義がなんであるかを考えれば分かるのであって、集団主義というのは他人のために自己犠牲を強いられるわけだ。
 その上でだが、非集団主義には、個人主義と人間主義がある。
 前者では、平時は自己犠牲ゼロ、有事は自己犠牲を強いられる、のに対し、人間主義では、自己犠牲することなく、平時も有事も自分と他人と双方が裨益するように心がけるわけだ。
 ところで、この人間主義についてだが、人間主義社会が成り立つためには、(安全保障の問題が解決したとしても、)その社会の平均的IQが高くないとダメなのではないか、という気がしている。
B:前に自分がそういう趣旨の話をしたら、太田さんに言下に否定された。
O:そいつは失礼なことをした。

(続く)