太田述正コラム#14170(2024.4.23)
<2024.4.20東京オフ会次第(その4)>(2024.7.19公開)

 その伝で行くと、戦後の韓国や台湾の経済発展も、日本の植民地統治の賜物と言うよりは、それぞれの住民のIQの高さのおかげ、ということになるのかも・・。
C:日本の場合、境界知能者と言ったって、世界的に見ればIQはそこそこ、と、言えるのかもしれない。
D:八幡市講義レジメについてだが、高齢者も多いであろう一般市民向けとしては、盛り込み過ぎだし難し過ぎでは?
O:パワーポイント資料を皆さんに作ってもらう機会も最後かもしれないので汎用性のあるものにしたいのだ。
 もちろん、当日、レジメの全体をカバーするつもりはなく、第2部の際に第1部を事典的に参照してもらうことも意図している。
 (八幡市の時のこのレジメの使い方としては、全体を推理小説仕立てとし、第1部で捜査対象を明らかにした上で、背景と様々な伏線を淡々と紹介した上で、第2部で犯人明かしを劇的に行う、というイメージを思い描いている。
 なお、その後気付いたのだが、私は、戦後日本のプロト日本文明回帰に気付く前にモード転換論・・現在も生きている!・・を打ち出して戦後「刀」が消えた理由を説明したということにも触れる必要があるし、幕末/維新の際に島津斉彬コンセンサスを包摂する形で横井小楠コンセンサスも存在した、ということも触れる必要があろう。)
E:赤穂事件について何か付け加えることは?
O:刃傷事件の時の饗応役の浅野長矩の相棒は伊達村豊(注3)だったが、浅野氏と伊達氏は絶交状態だった(注4)ので、長矩と吉良義央の間に軋轢が生じた時に長矩が村豊に相談できなかったことが、長矩を更に追い詰めた可能性がある。

 (注3)1682~1737年。。伊予国伊予吉田藩3代藩主。[<同藩は>宇和島藩の支藩。]
・・・刃傷の際にも現場に居合わせ、梶川頼照らと共に浅野の取り押さえに加わっている。浅野の凶事の後も<村豊・・当時は宗春・・>の方は無事役目を勤め上げ賞賛された。・・・
 享保17年(1732年)、享保の大飢饉に際し、吉田藩も虫害による損害2万5,000石、風水害による損害2,000石という大損害を出したため、幕府より3,000両を1年据え置きの5年払いで借りることを余儀なくされた。同年の年貢を常年の四分の一と免租し雑穀(麦稗)と根菜などを放出、備蓄米もあり一人の餓死者も出さなかった。同じ伊予の松山藩は全国の三分の一を占める餓死者を出し、松平定英が老中から譴責を受けている。・・・
 「左京亮様、勅使様饗応の儀、御首尾能く勤められた旨」と記され(『宗贇公御代記録書抜』)、地元では「勤皇のお殿様」「元禄赤穂事件(忠臣蔵)のお殿様」として有名。 吉田藩においては勅使饗応の費用として膨大な五千両を計上し(前項の大飢饉での借財が三千両であるから破格の金額である)、勅使はもちろん供の公家侍に対してもへりくだり、心を尽くして饗応した。「浅野長矩は吝嗇」「吉良義央は名君」との伝承口碑も吉田及び宇和島に残る・・・。
 浅野長矩は勅使饗応の費用を大幅に削減しようとしたという同時代人の記録がある(水間沾徳『沾徳随筆』より「浅野家滅亡之濫觴」)。・・・
 なお、村豊一人の才覚だけでなく「家老荻野七郎兵衛ら江戸詰め家臣の働きが良かった」と伝わる。・・・
 高家・上杉義枝は村豊三男である・・・。加えて吉田藩は吉良とも入魂の呉服商・笹屋と良好な関係で、朝廷の故事先例に通じていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%9D%91%E8%B1%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%90%89%E7%94%B0%E8%97%A9 ([]内)
 (注4)「<伊達政宗は、>豊臣政権の下で浅野家に「絶交状」を突きつけている。「絶交状」は11の理由を挙げているが、そのうちのひとつふたつ挙げてみると――。
 「浅野長政が秀吉の命令があったわけでもないのに、伊達政宗の知行を全部秀吉に進上するという書き付けを無理矢理書かせた」
 「文禄慶長の役の朝鮮の戦場で、浅野長政の叱責で伊達政宗は「臆病」との評判をもらった」
 などなどである。
 その喧嘩状態にある浅野家の分家である浅野内匠頭と伊達家の同じく分家の伊達左京亮を組み合わせたのだ・・・。・・・
 事件が起きた元禄年間は、「不通大名」間を和睦させることに幕府は力を入れていた。
 元禄11年(1698)には「不通」だった前田家と細川家が和睦し、岡山の池田家は元禄3年(1690)頃から土佐山内家や水戸徳川家と和睦してゆく。
 浅野と伊達の「不通」は幕閣には常識で、・・・元禄14年(1701)、時の将軍綱吉に重用されていた林大学頭は、この正月に老中になったばかりの稲葉正住に、「なぜ浅野家と伊達家は代々不通なのか」と尋ねている。
 その年の3月14日に浅野内匠頭の刃傷事件が起きるのである。・・・
 浅野内匠頭の刃傷事件の対処も失敗だった。こともあろうに伊達家の支藩・田村右京大夫(うきょうのだいぶ)<建顕(たつあき)>家で切腹させたのだから、<浅野の>家臣団が激昂するのも無理はない。
 ・・・五代将軍綱吉が亡くなった後、老中を辞した稲葉正住は、浅野と伊達の和睦を試みている<が、>・・・見事に失敗した。」
https://www.kigyoujitsumu.jp/business/topics/10610/
 「田村建顕は、・・・陸奥国岩沼藩の第2代藩主、のち田村家一関藩の初代藩主。・・・
 学問に秀でていたため、5代将軍・徳川綱吉に重用され、元禄4年(1691年)には奥詰衆に取り立てられて譜代格となり、元禄5年(1692年)には奏者番を拝命する。同年大晦日、建顕に改名する。元禄6年(1693年)には城主格とな<る。>・・・
 <刃傷事件後、一関藩邸で、>長矩は着用していた大紋を脱がされ、収容された座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。また庭先で筵の上で切腹させる、介錯に使おうと田村家伝来の由緒ある刀を家臣が持ち出してきたので建顕が激怒した、切腹した場所には今後誰も近づかないよう藩士に厳命した、長矩の遺言を隠したともいわれる。藩邸には墓や供養塔の類は一切なかった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E5%BB%BA%E9%A1%95
 「伊達政宗の正室・愛姫の実家である田村家は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかったため、改易に処せられた。
 愛姫の生子である伊達忠宗は母の遺言により承応2年(1653年)、忠宗の三男・田村宗良に田村家を再興させ、栗原郡岩ヶ崎に1万石を与えられる。万治3年(1660年)に仙台藩主に幼少の伊達綱村が就くと、綱村より2万石加増され、同年12月に従五位下、右京亮に叙任された。また、伊達宗勝と共に綱村の後見となった。寛文2年(1662年)、名取郡岩沼に転封され内分分家大名として岩沼藩の初代藩主となった。・・・
 延宝6年(1678年)3月に宗良は江戸で死去し、跡を次男の建顕が継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B2%BC%E8%97%A9

(続く)