太田述正コラム#14176(2024.4.26)
<加地伸行『儒教とは何か』を読む(その15)>(2024.7.22公開)
「この経学は、しかし、画一的な一つの型のものではなかった。
解釈である以上、しぜんに学派が分れる。
しかし、同一のテキストを使っていたならば、その優劣の論争で結着がついてしまう。
⇒そんなことはありえません。
そんなこと言ったら、法解釈学で学派の争いなど起きる筈がないということになってしまいます。
また、先だってのオフ会「講演」原稿でも、論語の同じ文章の解釈の多義性に触れたように、漢語、就中漢文の多義性を考えれば、より一層、著者の主張が成り立たないのは明らかでしょう。(太田)
そこで、学派の特徴を出すために、解釈以前に、使用するテキスト自身が異なっているという主張がなされるようになったのである。・・・
そう言える絶好の理由があった・・・。・・・
秦王朝の始皇帝が行なった〈焚書〉事件であった。・・・
前漢の儒家はこの焚書事件を利用して、そのとき隠されていたテキストが出てきたと称して、世に新テキストを出してきたのである。・・・
新出テキストは、・・・見たことのない奇妙な文字で書かれ<てい>・・・たところから、〈古文字の『書』〉すなわち『古文尚書(こぶんしょうしょ)』と名付けた。
一方、焚書事件から比較的近い・・・前漢の始めころ<に、>・・・『書』を暗誦していた学者が生き延びていたので、・・・その暗誦文を前漢時代に通用していた字形(すなわち前漢当時の現代文字)で・・・書きとった<ところの、>・・・古くから伝わっていたテキストは、・・・〈今日の文字の『書』〉、すなわち『今文尚書(きんぶんしょうしょ)』と名づけた。
このように、例えば『書』に関して、『今文尚書』と『古文尚書』という二つのテキストが使われるようになったのである。
当然、『今文尚書』を使う学派と『古文尚書』を使う学派とに分れて、解釈や主張を異にするようになった。
こうして『詩』『書』『礼』『易』『春秋』といった儒家の経書において、それぞれ、古文派と今文派とが登場することとなり、やがて両者が激しく論争するようになったのである。・・・
例えば、・・・今文系テキストの思想的説明では、周代よりもスケールの大きい前漢帝国の現状に合わないところがあった・・・<ことから、>無理な偽作をする必要があったの<だ。>・・・
<かかる背景の下、>重視<されたのが>・・・『春秋』<(注31)>と『孝経』<(注32)だった。>・・・
(注31)「魯(山東省)の史官の遺した記録に孔子が加筆し、自らの思想を託したといわれる。魯の隠公元年(前722)から哀公14年(前481)までの12公、242年間の編年体の記録。のちに、孔子が加筆した意図を解釈し、あるいはその記事を補うために公羊伝・穀梁伝・左氏伝の春秋三伝が作られた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%A5%E7%A7%8B-78611
(注32)「古文は22章、今文や御注本は18章から構成され、各章の終わりには多く『詩経』の文句を引く(ただし、朱子は詩の引用を後世の追加とみて削っている)。・・・
全体は短く、五経のうちには含まれていないが、古くから重要視された。・・・
『孝経』の作者についてはいくつかの説がある。
一つ目は、孔子と曾子の問答は孔子が仮託したものであると考え、全編を孔子本人の作とする説。
二つ目は、曽子を作者とする説。
三つ目は、曽子の門人を作者とする説。この説は比較的新しく、朱子『孝経刊誤』がこの説を採用している。
ほかに七十子説、子思説、孟子の弟子説などがある。清の姚際恒「古今偽書考」は、『孝経』が『春秋左氏伝』と多く一致することから、漢代の偽作とするが、『呂氏春秋』が『孝経』を引用しているため、先秦の著作であることは疑いえない。武内義雄は、『孝経』が「天子・諸侯・卿大夫・庶人」に章を分けているのが『孟子』の思想と一致しているとして、『孝経』が孟子と同じ学派によるものと考えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E7%B5%8C
<それは、>前漢時代の人々の意識として、『詩』『書』『易』『礼』は、孔子の〈編輯〉であるが『春秋』『孝経』は、孔子の〈作品〉である、としていたからである・・・。・・・
歴史的事実としては、孔子の〈作品〉ではな<く、>孔子の名に仮託して、だれかが作ったものである。・・・
<いずれにせよ、>大切なことは、この二つのテキストが重視されたことの、内容的な意味である。」(130~132、136)
⇒「漢代以来、儒教の第一の経典は五経(『易』・『書』・『詩』・『礼』・『春秋』)であったが、『論語』や『孝経』も別格扱いで同時に尊重されていた。前漢の昭帝・宣帝・元帝らは幼くして『論語』と『孝経』を学んでおり、この頃には『論語』は基礎教養として受け入れられていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E
というのに、どうして、このあたりで、著者が『論語』に言及しないのか、不思議でなりません。(太田)
(続く)