太田述正コラム#14180(2024.4.28)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その2)>(2024.7.24公開)

 「・・・斉明天皇の6年<(670年)>に・・・百済の遺臣、鬼室福信等が、使を派して我国に援兵を乞うてきたので、天皇は親しく兵を率ゐて、新羅を征伐されようとなさったの<だ>・・・が、親征の途中に於て、筑紫の朝倉宮で、崩御あらせられてしまつた。 次に代つて帝位に立たせられたのが、・・・天智天皇である。・・・
 元年<(662年)>・・・5月には、・・・船師170艘を派遣され、続いて、2年3月には、・・・兵2万7千人<で>・・・新羅<へ>の遠征を試みさせられたのであった。
 ところが、我軍は、唐と新羅の軍を引受けて、白村江といふ処で戦つたのであるが、大敗北をなし・・・てしまった。・・・
 <更に、>我国の版図として貢物をなしてきた善隣国の二つ・・・百済と高<句>麗・・・を失つて、・・・竹腰与三郎<(注2)>氏<も指摘したように、我国は、>・・・始めて外敵の恐るべき事を知つたのであつた。

(注2)1865~1950年。「「東亜新秩序の確立は、やがて全亜細亜復興の魁である。全亜細亜復興は、取りも直さず世界維新の実現である」と主張。また、自らが主張する南進論を実地踏査により実証的に裏付けるために明治42年6月から9月にかけて行った、南洋視察旅行の紀行文『南国紀』を発刊。内容は、北進政策(北進論)を非難し、渡航先の地誌、各国の植民政策の比較、日本の南進政策への提言などを詳述する政治的論説とも言うべきもので、発刊後、評判となり、版を重ねた。竹越はこの書物において主張して、「南人」たる日本人の北進は日本民族の使命であり、日本の歴史的約束であると説き、「南はもとより無人の地ではなく、無支配の土地ではない」が、侵略から解放へという「王者の道」を採ることでそれは果たされるであろうとしている。また、そもそも全亜細亜を支配していた大和民族は「亜細亜大陸回復の遣伝性」を保持してきており、内田良平と共にアジア各地に日本民族と日本文化の起源を求めたその手法を用いながら、そもそも亜細亜全体が日本の引き写しであったのだと議論全体を逆転させてみせたりもした。・・・
 西園寺の側近としても活躍し、・・・。昭和5年(1930年)には西園寺公望の半生を記した伝記『陶庵公』を執筆する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%B6%8A%E8%88%87%E4%B8%89%E9%83%8E
 このほか、「『新日本史』上巻(1891)・中巻(’92),・・・ベストセラーとなった・・・『二千五百年史』(’96)を著した。民間史学者の一人で,成長期ブルジョアジーの啓蒙史学の立場を代表。1915年以後は日本経済史編纂会をおこし,『日本経済史』8巻(のち12巻)を公刊した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E8%B6%8A%E4%B8%8E%E4%B8%89%E9%83%8E-93027

⇒「注2」で紹介した竹腰の主張や『南国記』は、西園寺公望が、言わせ、書かせ、たものである可能性が大です。(太田)

 一度(ひとたび)、我遠征軍の敗北がもたらされると、我国の上下は、それがために震撼し、今度は、反対に、戦勝の勢ひをかりて、唐と新羅が日本に攻めてくるのではあるまいかといふ恐怖におびえはじめたのであつた。」(9~10)

⇒当時日本は唐に暫時併合されるに至った、という学説(コラム#省略)も最近出現しているように、当時の日本の状況は更に深刻だった可能性があるところ、そのことはともかくとして、松原にせよ、竹腰にせよ、日本が初めて外敵の脅威を感じた時期を672年とし、隋が支那を統一した589年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
としなかったのは、というか、誰も私が指摘するまで589年としなかったのは、不思議です。
 この認識の違いが、私以外の人々と私との間での、遣隋使派遣目的に係る認識の違いをもたらすわけですが・・。(太田)

(続く)