太田述正コラム#14182(2024.4.29)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その3)>(2024.7.25公開)
「・・・対馬、壱岐、筑紫等に防人と烽火(のろし)を設け、また筑紫に大堤を築き、水井を貯へて水城(みづき)と名づけ<た。>・・・
防人・・・が出来たのは、・・・646<年>・・・のことである。・・・
<また、>聖徳太子以来、禁じられてゐた薬猟<(注3)>(くすりがり)を復して、武を練ることが宣せられ、二代後の天武天皇の御代に於ては、・・・684<年>・・・に・・・、「凡そ政の要は、軍事に在り。文武官は務て武藝を習ひ、其兵馬器械は、儲畜して闕(か)くこと勿れ。馬ある者は騎士となり、馬なきものは歩卒となれ。朕まさに時を以て検閲すべし。若し詔旨に忤(さから)ひ、習練精しからざるものは、親王以下、諸臣に至るまで、必ず罰せん。其勤習精練の者は、死罪と雖も二等を減ぜん。但し己が才を恃みて、故意に犯す者は、赦の例に在らず」<と>いふ勅を仰せ出されてゐる。
(注3)「5月5日に,鹿の若角や薬草を摘んだ日本古代の習俗。・・・
<支那>では《荆楚歳時記》によると,6世紀中葉ころ,揚子江中流域で,5月5日の端午の節句(夏至に近い)に,毒気を避けるため,香りの高いショウブやヨモギ,種々の薬草を摘む習俗があった。日本古代の薬猟は,百済を経由して伝えられたこの古代<支那>の民間習俗と,高句麗の宮廷で3月3日に行われていた鹿狩りの風習が併せて取り入れられ,推古朝に宮廷行事として成立したらしい。・・・
たび重なる禁令の発布は,まず貴族階級や都市民の間に獣肉食一般を罪悪視する感覚を醸成し,やがて日本人の多くが肉食を穢(けがれ)として,その忌避に傾いていったようである。そして,元来は薬草採取などを意味した薬猟の語が野獣の捕獲の意にも拡大され,獣肉の食用を薬食(くすりぐい)とも呼んで,それに免罪符的な役割をもたせるようにもなった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%96%AC%E7%8C%9F-1160868
⇒薬猟などという脱法行為めいたネーミングを巻き狩りにつけた、ということは、参加者達の腰が据わっていなかったことを物語っています。
厩戸皇子が巻き狩りを禁止したとは考えにくく、同皇子が、仏教に篤く帰依していたことから、巻き狩りを貴族達がサボる口実に使われた、ということではないでしょうか。(太田)
その次の持統天皇の御代に於ても、・・・689・・・年の9月には、・・・年々諸国の壮丁を四分して、その一をあげて兵となし、武を練るべきことを命ぜられ、大化以来完成されつゝあつた国民皆兵の軍防令を、益々完備あらせられたのであつた。・・・
<672>年10月には、詔して「いまより以後、親王以下諸臣の武器を見そなはさん」と仰せ出され、「浄冠<(注4)>より直冠<(注4)>までは甲一領、太刀一口、弓矢一口、弓矢一具、鞆一枚、鞍おける馬一頭を儲へよ、勤冠<(注4)>より進冠<(注4)>までは、太刀一口、弓一張、鞆一枚を儲へよ」と仰せられ、11月には、戦法を心得てゐる博士(陣法博士)を諸国に遣はして兵士を教練させられたのであつた。」(12~13)
(注4)「改制官名・位号、親王明冠四品、諸王浄冠十四階、合十八階。諸臣正冠六階、直冠八階、勤冠四階、務冠四階、追冠四階、進冠四階、合卅階。外位始直冠正五位上階、終進冠少初位下階、合廿階。勲位始正冠正三位、終追冠従八位下階、合十二等。始停賜冠、易以位記、語在年代暦。又服制、親王四品已上、諸王・諸臣一位者皆黒紫。諸王二位以下、諸臣三位以上者皆赤紫。直冠上四階深緋。下四階浅緋。勤冠四階深緑。務冠四階浅緑。追冠四階深縹。進冠四階浅縹。」(大宝元年(701)三月廿一日の記事)
https://note.com/masachan5/n/n3213152e0768
⇒要するに、騎乗するのは親王と上級貴族だけだったというわけです。
つまり、当たり前のことながら、指揮官レベルが騎乗しただけで、当時の日本軍は歩兵軍であったということです。
隋や唐の騎馬遊牧民系の軍隊と互角に戦うことができるところの、戦士全員が騎乗する武士の創出を図る構想を(私見では)後の桓武天皇が策定したゆえんです。(太田)
(続く)