太田述正コラム#14184(2024.4.30)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その4)>(2024.7.26公開)
「又、<701年の>文武天皇の大宝令では、兵部省<(注5)>が出来て、兵を司ることにな<った。>」(15)
(注5)「令制の八省の一つ。和訓は〈つわもののつかさ〉という。内外武官の名帳,考課,選叙など人事,および兵士の差発,兵器,儀仗,城隍,烽火の軍政一般を管掌し,兵馬司,造兵司,鼓吹司,主船司,主鷹司を管轄した。構成は,卿,大輔,少輔,大丞各1人,少丞2人,大録1人,少録3人,史生10人,省掌2人,使部60人,直丁4人。成立は大宝令期と考えられるが,それ以前については詳細は不明。《日本書紀》天武4年(675)にみえる兵政官長,大輔をその前身とみる考えがあるが,不詳。兵政官長が長官を意味する用語であれば,当時,他の八省長官が尚書などの用語をもちいていることとの違い,さらには兵政官は太政官の支配下にあって八省に位置づけられるものなのか,など不明の論点が多い。
[隼人司を管轄する。他に兵馬(ひょうま)・造兵・鼓吹(くすい)・主船・主鷹司の五司も被管であったが、他の官司に併合されたり、廃絶したりした。]
兵部省の性格を,隋・唐のそれと比較するとはなはだしく相違し,隋・唐の基本的性格が削除され,また日本の兵部省が管轄する諸官司についても兵馬司を除いて共通性がない。日本律令制下の兵部省は日本固有の理由のもとに設置されたものである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%B5%E9%83%A8%E7%9C%81-121397
「隼人司 (はやとのつかさ)<は、>隼人を管掌する役所。天武・持統朝のころ,大隅隼人,阿多隼人の一部は畿内および周辺地に移住させられ,番上して,宮門守護,歌舞の演奏,竹笠の造作等に当たった。また大隅,薩摩に在住の隼人らが6年1交替で上京して来たが,それらを管掌する官衙が隼人司である。令制では衛門府に属し正1人,佑1人,令史1人,使部10人,直丁1人の官人構成であった。その下に大衣(おおきぬ)隼人,番上隼人,今来隼人,白丁隼人らがおり,諸々の職に当たった。808年(大同3)に隼人司を統合した衛門府が同年左右衛士府に統合されたのを機会に,隼人司は復置されて兵部省に属することとなった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E5%8F%B8-116451
⇒兵政官長が兵部卿の前身であるかどうかより、その前の天智朝における軍政機関の有無と「有」の場合のその名称が知りたいところ、恐らく「無」だったのでしょう。
いや、兵部省だって、隋唐にあるのでそれを継受した形にしたけれど、名前だけで、実態は無きに等しかったのではないでしょうか。
このこととも関連して異様なのは、軍政の方は名前だけでも少なくとも機関を設けるに至ったものの、軍令の方は常設機関が影も形もないまま推移していたことです。
実際、例えば、663年の白村江の戦いの時、「大和朝廷側は強力な権限を持った統一指揮官が不在であり、作戦も杜撰であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
上、「指揮するために斉明天皇と共に<中大兄皇子が>筑紫の朝倉宮に滞在し・・・、661年8月24日<に>・・・斉明天皇が崩御<するまでは同天皇が、そして、同天皇崩御後は>・・・皇太子のまま称制し<た中大兄皇子が、指揮を執った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
形ながら、その女帝の斉明天皇はもちろん、その中大兄皇子にも、軍事的素養があったとは思えない。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87-102574 及び上掲
というのに、斉明や中大兄を補佐する臨時の軍令機関(総指揮官)すら設けられていません。
称制してすぐ白村江の戦いで敗北を喫しながら、その後、天皇となっても、なお、常設の軍令機関を中大兄が設置しなかったのは、既に、日本を(欧州型の)封建制社会に変貌しようと考え始めていた彼が、あえてそうした、と、私は考えるに至っているところ、この天智朝を乗っ取ったところの、天武朝、に至っては、何も考えないまま、ただただ唐に「倣って」(注6)そうしただけではないか、と、考えるに至っています。
(注6)唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は長安城内に駐屯し、ここに務める兵力は府兵が担いこれを衛士といった。長安には府兵が属する組織として十二衛府六率府があり、十二衛(左右衛・左右驍衛・左右威衛・左右両軍衛)は各4-50の折衝府を管理し、皇帝の儀仗や宿衛、皇族や各官庁の警護にあたった。六率府(左右衛率府・左右司禦率府・左右清道率府)には各3-6の折衝府を管理し、皇太子の宿衛儀仗にあたった。南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、京師周辺の下等戸から優先して徴兵する彍騎制を行って兵力を確保しようとしたが、こちらも早期に頓挫。京師警備の任務も北衙禁軍が担うこととなった。
北衙禁軍は、高祖のときの元従禁軍を元とし、太宗の638年(貞観十二年)に老齢化した彼らに代わって二等戸以上から選抜して飛騎と呼んで皇帝親衛軍とし、更に飛騎の中から選抜して百騎とした。飛騎の駐屯地は長安宮城北の玄武門の左右にあったので北衙と呼ばれる。この時点での北衙の兵力は南衙に比べれば微々たるものであったが、高宗の662年(龍朔二年)に左右羽林軍として独立した軍となる。更に百騎が689年に千騎・705年に万騎と改称されてその都度増員され、玄宗の738年(開元二重六年)に万騎が左右龍武軍として独立、北衙は四軍となった。
安史の乱の際に、本来の北衙禁軍である羽林軍は壊滅しており、これに代わって禁軍の中核となったのが神策軍である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
「神策軍<は、>・・・唐代の皇帝直属軍の一つ。初め北西駐屯の地方軍であったが,安史の乱の際内地に移駐して,壊滅した従来の中央軍に代って皇帝直属軍の中核となり,やがて左右2軍に編成された。必ず宦官が神策軍中尉と呼ばれる総帥者となり,これが中唐以後,宦官が政治的発言力を増す基礎となった。第 11代皇帝憲宗はこれを強化して反唐的節度使の討伐に活用し,一時唐朝の安定期を迎えた。最盛時には 15万の兵力があったといわれる。
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E7%AD%96%E8%BB%8D-81803
その唐ですが、「注6」からも分かるように、その中央軍は、皇帝直轄軍以外は急速に衰退し、皇帝直轄軍の方も、能力の低い人物が皇帝が就くようになり、かつ、皇帝候補者達に対する軍事に係る教育訓練の不足により軍事素養のない人物が皇帝に就くようになった結果、最終的には衰退し、結局、地方軍/辺境軍から生まれた節度使の軍事力頼りになってしまい、唐は滅亡に向うわけですが、私は、天武朝は、まさに、この唐の名存実亡の中央軍制に「倣った」のだと考えている次第なのです。(太田)
(続く)