太田述正コラム#14186(2024.5.1)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その5)>(2024.7.27公開)

 「・・・世界人類を戦慄させた大国家・・・蒙古・・・が、当時、国防準備の全く整つてゐない日本に目をつけたのである<。>・・・
 まさに我国にとつては、未曾有の大国難が現出した訳である。・・・

⇒私と松原の見方が「当時、国防準備の全く整つてゐない日本」と、180度違うのには吹き出してしまいました。
 仮に松原の言う通りだったとすれば、白村江以来の日本の朝廷と鎌倉幕府は、この上もなく怠慢であり続けたことになってしまいますが・・。(太田)

 茲(ここ)に於て、一時衰へてゐた国防思想は勃然として我国に起つてきたのであつた。
 まず、それを勇敢に唱へたのは、日蓮であった。
 日蓮は安房の人で、初め真言宗を学んだが、後に法華宗を唱へ、我国日蓮宗の開祖となつた人である。・・・

⇒「日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った。・・・次に日蓮は、・・・比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学<し>・・・た。遊学の中心は延暦寺で、滞在したのは比叡山横川の寂光院と伝えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
というのですから、少なくとも、「初め真言宗も学んだが」でしょう。(太田)

 日蓮が、「立正安国論」を書いて、幕府に上書したのは、<1260>年である・・・。・・・
 <これ>は、・・・蒙古牒状に先だつこと9年である。・・・

⇒蒙古牒状とは、1969年の、「モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した・・・第四回使節」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
のことを指しているのでしょう。(太田)

 僧侶である日蓮は、先方の宋を逃げてきた僧侶などから、蒙古の恐怖を伝へきいてゐたのであらう。・・・
 日蓮は、・・・丁度新興宗教を建てつゝあつた時であつたので、その国難を利用して、自宗を極端に広めようとした嫌(きらひ)がないでもない。
 彼は、法華経を流布することによつて、国家が安泰になると信じてゐた。
 「立正安国論」に於て「信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち、三界は皆仏国なり、仏国それ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく、土に破壊なくんば、身はこれ安全にして、心はこれ禅定ならん。」と言つてゐる。

⇒松原の念頭には、彼の執筆当時の言葉で言えば自存自衛、戦後の言葉で言えば個別的自衛権のことしかなさそうですが、日蓮がここで言っているのは、全世界を仏国、宝土にしなければならない、ということであり、執筆当時の言葉で言えば共存共栄、戦後の言葉で言えば共通の普遍的価値の追求、であって、松原は、日蓮についても、従って、執筆当時の日本の真の戦争目的についても、全く理解していない、と、言わざるを得ません。
 後者に関しては仕方がありませんが、前者については褒められたものではありません。(太田)

 我国は、<二度にわたって>天祐によつて、<元寇という>大国難を免がれることが出来たのであつたが、元に受けた痛苦は、ひどく我国民の胸に刻まれて、国防の準備がなく、進取敢闘の心のなき国の惨めさを知らせたのであつた。」(25、28~29、32、44)

⇒とまあ、このように、松原は、台風という天祐によって日本はかろうじて元による征服を免れた、と、しているわけであり、まことに困ったことです。(太田)

(続く)