太田述正コラム#14360(2024.7.27)
<皆さんとディスカッション(続x5969-1)/日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から>

<太田>

 皆さんとディスカッション(続x5969-2)を、後刻アップする予定。

 一人題名のない音楽会です。
 ブラームス(Brahms)の落穂拾い小特集です。

3 Intermezzi, Op. 117(注a) 16.58分 ピアノ:Radu Lupu
https://www.youtube.com/watch?v=w4nnjhHe15U

(注)’Brahms composed the three Intermezzi of Opus 117 in the summer of 1892 while staying in Bad Ischl・・[Austrian German is a spa town in Austria. It lies in the southern part of Upper Austria, at the river Traun in the centre of the Salzkammergut region. ]・・. The first intermezzo is among Brahms’ most popular piano compositions. It is prefaced in the score by two lines from an anonymous Scottish ballad, “Lady Anne Bothwell’s Lament”.
https://en.wikipedia.org/wiki/Three_Intermezzi_for_piano,Op._117(Brahms)
https://en.wikipedia.org/wiki/Bad_Ischl ([]内)

6 Klavierstücke, Op. 118(注b) 22.18分 ピアノ:Murray Perahia
https://www.youtube.com/watch?v=ZSf2veLfC-w&t=87s

(注b)ピアノのための6つの小品。「1893年に完成し・・・、クララ・シューマンに献呈されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%B0%8F%E5%93%81_(%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9)

 オマケ:Gulshair Kerimbaevaの歌唱がその後また一つアップされていた。↓

Long roads 3.26分 作詞: Jazgul Zhamangulova作曲: Tumunbai Koldoshov

https://www.youtube.com/watch?v=81MtwDI9kuA

       日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から

第一部 問題意識と私独特の用語

 1 問題意識
  (1)日本とは?
  (2)先の大戦で日本が勝利できたのはなぜか
 (3)日本の弥生性が戦後急速に失われたのはなぜか
 2 私独特の用語の紹介
 (1)人間主義
 (2)集団主義・非集団主義
 (3)日本文明/プロト日本文明
 (4)日本文明モード転換論
 (5)日本における理念
(6)日蓮主義(拡大日蓮主義)
 (7)中原文明(華夏文明)・江南文明・漢人文明
 (8)支那/中共/日支戦争
 (9)古典ギリシャ文明
(10)文明の継受
 (11)拡大枢軸の時代
 (12)弥生的縄文人/縄文的弥生人
(13)モンゴルの軛
 (14)プロト欧州文明/欧州文明
(15)拡大ゲルマン人大移動
 (16)先の大戦
 3 頭の整理
 (1)人間(にんげん)の類型
  ア 縄文人(人間主義者)
  イ 弥生人
   (ア)騎馬遊牧民
   (イ)ゲルマン人
     第一次ゲルマン人大移動–現在のドイツ等へ南下
     第二次ゲルマン人大移動–旧ローマ帝国西部の征服
     第三次ゲルマン人大移動–欧州東部と欧州最南部征服
      カロリング家による旧西ローマ領外ゲルマン人の征服(ローマ化)
      ヴァイキングのロシア征服(スラヴ征服1)
      ヴァイキングの南イタリア「征服」:11~12世紀
      北方十字軍:12世紀央~16世紀(スラヴ征服2)
     第四次ゲルマン人大移動–地理的意味での欧州外へ:
      スペイン:
      イギリス:
      (ロシア)
      オランダ:
      フランス・ベルギー:
  ウ 弥生的縄文人と縄文的弥生人
    (ア)弥生的縄文人
    (イ)縄文的弥生人
  エ 普通人
(2)天才民族
  ア ユダヤ人(背景に迫害)
   (ア)イエスとマルクス
   (イ)アインシュタイン
  イ 古典ギリシャ人
   (ア)広義のイオニア学派・・・歴史書(ヘロドトス)、演繹科学創始、
   (イ)ソクラテス/プラトン/アリストテレス
  ウ 中原人(華夏人)
   (ア)孫武
   (イ)孔子
  エ 準天才民族のインド・アーリア人
   (ア)釈迦
   (イ)『法華経』の執筆者達
  オ 日本人
   (ア)厩戸皇子
   (イ)日蓮
   (ウ)島津斉彬
  カ イギリス人
 (3)欧米三文明
  ア アングロサクソン文明
  イ 欧州文明
  ウ 米国文明

第二部 先の大戦と戦後日本

 1 始めに
 2 新しい日本史:戦前まで
(1)初めに
 (2)聖徳太子コンセンサス
  ア 隋が漢人文明の主となった衝撃
 イ 聖徳太子コンセンサスの形成
              (続く)

第一部 問題意識と私独特の用語

 1 問題意識

  (1)日本とは?

日本とは何か、という難問に私はエジプトのカイロで送った少年時代から悩まされてきたが、実に、数年前にもなって、ようやく私なりの答えに辿り着いた。
 その私の答えを理解してもらうため、迂遠に思うかもしれないが、まず、理念や文化、文明の話から始めたい。
 ドイツの社会学者のマックス・ヴェーバーは、理念の重要さを力説した。↓

 「人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(スイッチ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックス<を燃料として蒸気機関車たる>人間の行為を推し進めてきたのである」(<マックス・ヴェーバー>「世界宗教の経済倫理序論」大塚久雄・国松敬三訳、『宗教社会学論選』所収)
https://shochian2.com/archives/39395 から孫引き

 (ところが、この考えに基づいて、「プロテスタンティズムが近代資本主義文明を生み出したとヴェーバー<は主張したけれど、>・・・近代資本主義文明・・・はイギリス人の生き様である個人主義の論理的帰結としてイギリスで確立したアングロサクソン文明にほかならず、この文明の確立にキリスト教は、カトリシズム、プロテスタンティズム等のいかんを問わず、何ら関わっていない」(コラム#16)ということ一つとっても、ヴェーバーは具体的主張中の最重要なものの多くにおいて完全に間違っている。
 なお、この点を含め、私のイギリス(アングロサクソン)文明論の多くは、アラン・マクファーレーン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3
に拠っている。)
 また、米国の文化人類学者のルース・ベネディクトは、文化の重要性を力説した。↓

 「どの国の人々も独自のレンズ<(文化)>を通して世界を統覚している。そのレンズ<(文化)>を通して与えられた世界はあまりにも自然なため、意識する(メガネをはずすこと)は難しい。そのような時は眼科医(文化人類学者)が必要になる」(ルース・ベネディクト『菊と刀』より)
https://liberal-arts-guide.com/the-chrysanthemum-and-the-sword/

 さて、このベネディクトは、恐らくは、自分の本のタイトルが紆余曲折を経てようやく『The Chrysanthemum and the Sword<(菊と刀)>: Patterns of Japanese Culture』と決まって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E3%81%A8%E5%88%80
それから後付けで、その本の始めの方で、「菊も刀も、同じ日本像の一部なのである。日本人は攻撃的<(刀)>でもあり、温和<(菊)>で、もある。軍事を優先<(刀)>しつつ、同時に美も追求<(菊)>する。思い上がっている<(刀)>と同時に礼儀正しい<(菊)>。頑固<(刀)>でもあり、柔軟<(菊)>で・・・もある。従順である<(刀)>と同時に、ぞんざいな扱いを受けると憤る<(菊)>。節操がある<(刀)>と同時に二心もある<(菊)>。
 勇敢<(刀)>でもあり、小心<(菊)>でもある。保守的で・・・ある<(刀)>と同時に、新しいやり方を歓迎する<(菊)>。他人の目をおそろしく気にする<(刀)>一方、他人に<自>分の過ちを知られていない場合でもやはり、やましい気持ちに駆られる。兵卒は徹底的に規律をたたき込まれている<(刀)>が、同時に反抗的<(菊)>でもある。」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=a63cdb0bdef5b85bJmltdHM9MTcxNDAwMzIwMCZpZ3VpZD0zYjc0MjA5My02MjhlLTYxNmQtM2M0OS0zNGRkNjM2NDYwZGYmaW5zaWQ9NTE5Mw&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=3b742093-628e-616d-3c49-34dd636460df&psq=%e3%80%8c%e8%8f%8a%e3%81%a8%e5%88%80%e3%80%8d%e3%81%ae%e5%91%aa%e7%b8%9b+%3a+%e3%81%a9%e3%81%ae%e3%82%88%e3%81%86%e3%81%ab%e5%9b%bd%e6%b0%91%e6%96%87%e5%8c%96%e5%83%8f%e3%81%af%e5%bd%a2%e6%88%90%e3%81%95%e3%82%8c%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b&u=a1aHR0cHM6Ly9vbXUucmVwby5uaWkuYWMuanAvP2FjdGlvbj1yZXBvc2l0b3J5X2FjdGlvbl9jb21tb25fZG93bmxvYWQmaXRlbV9pZD02MDc2Jml0ZW1fbm89MSZhdHRyaWJ1dGVfaWQ9MTkmZmlsZV9ubz0x&ntb=1
と書き入れたのだろうが、本文中には殆ど言及のないこの部分に関してだけは、彼女は概ね正鵠を射ている。
 これを私の言葉に置き換えれば、「縄文性も弥生性も、同じ日本像の一部なの」だ。
 (ところが、そのベネディクトは、日本を、このような矛盾する2つの要素からなる文化の社会だと後付けで指摘しながら、本文中では、日本文化が単一の要素からなっているがごとく、しかも上から目線で、米国文化とこの日本文化とを、「個人主義と集団主義、平等主義と階級制、自由と権威、罪と恥などの・・・対立概念」で対比させている(上掲)ところ、こちらの方は完全に間違っている。
 例えば、米国人は日本人よりもむしろ集団主義的だという結論が東大の一連の研究で最近下された
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_200930.html
し、米国は、アメリカ原住民差別や黒人差別に象徴されるひどい人種差別主義社会(典拠省略)である上、日本は階級制社会ではなく私の唱えるエージェンシー関係の重層構造社会だ(コラム#40、42、43)し、日本は一貫して権威主義体制ではなかった、すなわち、「権力を元首または政治組織(政党など)が独占して統治を行う政治思想や政治体制」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ではなかった(典拠省略)し、日本人は、恥の意識に加えて罪の意識もある(橋本雅之(コラム#9951))
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=f8905d0b4e2cb447JmltdHM9MTcyMTY5MjgwMCZpZ3VpZD0xOWJmMDZkZi02YjFmLTZlNmQtMDk0NS0xMjRmNmE2NTZmMjEmaW5zaWQ9NTI3NA&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=19bf06df-6b1f-6e6d-0945-124f6a656f21&psq=%e6%a9%8b%e6%9c%ac%e9%9b%85%e4%b9%8b%e3%80%80%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%ae%e3%81%93%e3%81%93%e3%82%8d%e3%82%92%e8%aa%ad%e3%81%bf%e7%9b%b4%e3%81%99%e3%80%80%e3%81%9d%e3%81%ae%ef%bc%93&u=a1aHR0cHM6Ly9rb2dha2thbi5yZXBvLm5paS5hYy5qcC9yZWNvcmQvMjI4L2ZpbGVzLyVFNiU5NyVBNSVFNiU5QyVBQyVFNSVBRCVBNiVFOCVBQiU5NiVFNSU4RiVBMjEtMDUucGRm&ntb=1
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=99d56baa35984395JmltdHM9MTcxNDAwMzIwMCZpZ3VpZD0zYjc0MjA5My02MjhlLTYxNmQtM2M0OS0zNGRkNjM2NDYwZGYmaW5zaWQ9NTI3Ng&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=3b742093-628e-616d-3c49-34dd636460df&psq=%e7%bd%aa%e3%81%a8%e6%81%a5&u=a1aHR0cHM6Ly9rb2dha2thbi5yZXBvLm5paS5hYy5qcC8_YWN0aW9uPXJlcG9zaXRvcnlfYWN0aW9uX2NvbW1vbl9kb3dubG9hZCZpdGVtX2lkPTIzNSZpdGVtX25vPTEmYXR0cmlidXRlX2lkPTIyJmZpbGVfbm89MQ&ntb=1
という、私見では、罪だけの意識の米国人よりも高度な規範意識を有する、からだ。)
 その上でだが、私は、文化を文明と言い変えた上で、改めて、その重要さを訴えたい。
 なお、ヴェーバーの言ったことも、多くの場合、「「理念」によってつくりだされた「世界像」<が>、きわめてしばしば転轍機(スイッチ)として文明を決定し、その文明の上<で>利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきた」、と、言い直すことができよう。
 以上は、日本史関係者において、戦後つい最近まで猖獗を極めたマルクス主義史観や、戦前からずっと大流行りの私が言うところの「ぶつ切り出たとこ勝負史観」・・歴史を諸局面に分解しそれぞれの局面の成り行きをその時の諸勢力の思惑や力関係等のせめぎ合いの結果として説明し、これら諸局面を並べて串刺しにしただけの史観・・、という二つの対蹠的な日本史観、に対する異議申し立てでもある。
 さしずめ、私の世界史観は「一筆書き・理念/軍事重視史観」、日本史観はこれに「家」を加えた「一筆書き・家理念/軍事重視史観」、といったところか。
 その上で、上から目線過ぎるとのお叱りは甘受するが、私は、日本文明は、菊ならぬ縄文性、と、刀ならぬ弥生性、という、本来は水と油の関係にある二つの属性を共存させることに成功した奇跡の文明であって、それは、人為的に形成された理念に基づいて上からの働きかけで生み出された、世界で最も普遍性のある文明である、と、言いたいのだ。
 (ちなみに、ヴェーバーがイギリス論で間違った理由は、彼が相対的に普遍性の観点から劣位にある欧州文明出身者であるにもかかわらず、優位にあるイギリス(アングロサクソン)文明を解明しようとしたからであり、ベネディクトが日本論で間違った理由は、アングロサクソン文明よりも劣位にある米国文明出身者であるにもかかわらず、アングロサクソン文明よりも更に優位にある日本文明を解明しようとしたからだ、というのが私見だ。
 普遍性の度合いは、極端に単純化すれば、人間主義(inter-human-ism)>個人主義(individualism))/集団主義(groupism)>全体主義(totalitarianism)>階級制(hierarchy)/カースト制(caste system)>一族郎党制(clan system)・・いずれも後で説明・・、なのであって、これは、自然性の度合いの順、ないしは、作為性の度合いの逆順、である、と、私は考えている。)

  (2)先の大戦で日本が勝利できたのはなぜか

 私のもう一つの問題意識は、みんなが異口同音に日本は先の大戦で敗北したと言うけれど、私は、大学時代から、日本は勝利したと考えており、むしろ、軍事的経済的には相対的に圧倒的に劣っていた日本が、いかなる背景、経緯の下で勝利を収めることができたのかこそを知りたいというものだった。
 では、どうして日本が先の大戦・・日本の場合は満洲事変から終戦まで(後述)・・に勝利したと言えるのだろうか。
 戦争の勝敗は、戦争による軍民の相対的な被害の大きさ等で判断すべきではなく、戦争目的を達成したかどうかで判断されるべきである、というのが私のスタンスであるところ、このことは、ベトナム戦争(~1975年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89
や、少し古いが英仏百年戦争(1339~1453年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
での勝敗を考えればしごく常識的なスタンスだと思うのだが、以下、申し上げるように、日本は、あらゆる戦争目的を達成したのだから、勝利したのだ。
 日本の戦争目的が、(第二次世界大戦勃発後は独伊と共通の戦争目的になったところの、)経済ブロック廃止(自由貿易実現)(注1)、と、(それ以前からの、)対ソ(対露)抑止(注2)、及び、アジア解放(注3)、と、蒋介石政権打倒(注4)、であったことを思い出して欲しい。

 (注1)日本が先の戦争がらみで経済ブロック廃止を唱えたことはないが、「1929年~1933年の世界恐慌期に、資本主義主要国がブロック経済政策を採ったため、世界貿易は<そ>の4年間に7割が減少、その結果、欧米と日本で数千万人の失業者が出た。そのような社会不安を背景に、<英・仏・米>の「持てる国」グループと、<独・伊・日>の「持たざる国」の勢力圏をめぐる対立が深刻化し、ソ連社会主義政権に対しては双方とも警戒心を強めながら接近を模索するという複雑な外交関係の進展を経て、最終的に連合国と枢軸国とに二分されて第二次世界大戦に突入した。従って、帝国主義諸国がブロック経済政策を採ったことが世界大戦をもたらした直接的要因と言うことができる。」
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-026.html
 (注2)「1938年11月の近衛文麿による東亜新秩序声明 (第二次近衛声明)で、東亜新秩序の建設により日満支三国相携による「共同防共の達成」を期すことが謳われた。また同年12月の同氏による「日支国交調整方針に関する声明」 (第三次近衛声明)では、日支防共協定を締結し、特定地点に防共目的で日本軍を駐屯し、内モンゴルを特殊防共地域とする方針を示した。1939年には三つの自治政府の合併によって蒙古聯合自治政府が誕生し、主席のデムチュクドンロブ(徳王)は就任宣言において「防共協和および厚生に最善の努力を行使」と謳った。1940年に成立した中華民国汪兆銘政権は和平反共建國を謳っており、同年11月30日に日本と中華民国汪兆銘政権は、共産主義的破壊活動に対する共同防衛及びその為の日本による蒙疆及び華北への軍隊駐屯を認める条項を含む日華基本条約を結んだほか、同日に日本、満洲国及び中華民国汪兆銘政権は共同防共の実を上げるために協力すること等を宣言する日満華共同宣言に調印した。また、1941年には華北に華北防共委員会が設置された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%85%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 (注3)1943年11月6日の日本が主宰した大東亜会議での大東亜共同宣言に、「抑〻世界各國ガ各其ノ所󠄁ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平󠄁和確立ノ根本要󠄁義ナリ󠄁然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽󠄁クナキ侵󠄁略搾取ヲ行ヒ大東亞隸屬化󠄁ノ野望󠄁ヲ逞ウシ遂󠄂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆󠄁サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂󠄂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全󠄁ウシ<下に掲げられているところ>ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建󠄁設シ以テ世界平󠄁和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E4%BC%9A%E8%AD%B0
とある。
 (注4)日支戦争中の1938年1月16日に第1次近衛文麿内閣が発表したいわゆる第一次近衛声明の中で、「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセス帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ是ト兩國國交ヲ調整シ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A3%B0%E6%98%8E
、また、1941年12月8日の米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書の中で、「中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ玆ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭<(ヒイン)>ヲ恃ミテ兄弟尙未タ牆ニ相鬩<(セメ)>クヲ悛メス・・・」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%9C%8B%E5%8F%8A%E8%8B%B1%E5%9C%8B%E3%83%8B%E5%B0%8D%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%AE%A3%E6%88%B0%E3%83%8E%E8%A9%94%E6%9B%B8
、とある。

 まず、経済ブロック廃止については、日本の対米英開戦前の1941年8月14日に先の大戦後の米英の目標を示した声明である、大西洋憲章(The Atlantic Charter)が発表され、その中で、「貿易障壁を引き下げること」が謳われ、「「勝者も敗者も」「平等な条件で」市場アクセスを与えられることを意識的に強調している。これは、・・・第一次世界大戦後に<欧州>内で確立された懲罰的な貿易関係を否定するものであった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%86%B2%E7%AB%A0
ところ、これでもって事実上達成され、「1947年10月30日に<、米国>ほか23ヵ国がジュネーブで調印し,48年1月から発効した・・・〈関税・貿易に関する一般協定General Agreement on Tariffs and Trade〉」
https://kotobank.jp/word/GATT-2388
によって成就した。
 また、残りの、対ソ(対露)抑止、アジア解放、国民政府打倒、についてだが、
1947年には、対ソ抑止について、「3月12日にトルーマンは一般教書演説で<米国が英国>に代わってギリシアおよびトルコの<ソ連に対する>防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」<が、まず>あ<げられるほか>、・・・さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式で・・・マーシャル国務長官が<、ソ連に対抗するための、欧州>復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を<始め>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%88%A6
といった具合に、米国が全球的に日本等の肩代わりをして行ってくれる目途が付き始めていたし、
蒋介石政権打倒については、支那における国共内戦が形勢が日本の提携相手であった中国共産党<(注5)>側に傾き始めたために、「1947年3月には蔣介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換する<ことを余儀なくされた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6
し、
アジア解放については、インド亜大陸が<1947年>8月中旬に印パ両国に分かれた形で英国から独立を達成し・・・た
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%88%86%E9%9B%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B」(コラム#10353)ことでもって、大勢が決した趣があった、
ところだ。
 
 (注5)帝国陸軍と中国共産党が暗黙裡に手を握っていたことについて、コラム#7572、7820、10223、10273、参照。

 なお、経済成長と人口動態の観点から以上を補足しておこう。
 実は、「軍民」中の「民」の相対的な被害の大きさの観点からさえ、日本は敗北したとは言えそうもないのだ。
 まず、経済成長だが、下掲↓
https://honkawa2.sakura.ne.jp/4430.html
中の「経済成長率の推移(日本の戦前及び戦後直後)」グラフを踏まえれば、大恐慌時の1929年のほぼゼロ成長から、しばらく低成長で助走し、1931年に満洲事変を敢行すると、経済ブロック化をものともせず、その2年後から高度経済成長が始まるも、1937年に日支戦争が開始されて戦争が本格化すると終戦に至るまで経済は長期低迷状態に陥り、1945年の終戦時とその翌年は更に大きく落ち込むけれど、その後、日本は、上記の高度経済成長基調に復帰し、戦後23年目の1968年に世界第二位の経済大国となり、その地位を40年間維持することになる。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1426
 この戦後の高度経済成長は、満洲事変以降の、帝国陸軍が主導した総力戦体制の構築(コラム#2264、10367、10369、10371、10373、10377、10379)がもたらした戦前の高度経済成長を、その体制を基本的に維持したことによって、中断後、再開できた成果なのだ。
 次に、人口だが、下掲↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 ※
の「1899年(明治32年)から現在に至るまでの人口統計」を踏まえれば、1939年9月に、これも帝国陸軍主導で開始された「産めよ殖やせよ」運動(コラム#8426))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E3%82%81%E3%82%88%E6%AE%96%E3%82%84%E3%81%9B%E3%82%88
の成果で出生率が4を切っていた日本が、1940~1943年の間、4台を回復し、その状態を戦後の1947~1949年の間、再び回復したことで、2011年には、1億2808万人というピーク人口を達成できた(※)のだ。
 とにかく、日本は先の大戦に勝利したわけであり、そうである以上、敗北したことを当然視した上で行われてきた、戦後日本における様々な主張や議論はことごとくナンセンスだということになるわけだ。

 (3)日本の弥生性が戦後急速に失われたのはなぜか

 最初に日本には縄文性と弥生性が併存しているという話をしたところ、大学を出て、防衛庁(当時)に入った私だったが、防衛庁/自衛隊においてすら、既に弥生性が急速に薄れてしまっていることに驚き、30年近く同庁に勤務して自ら退職した後、最初に打ち出したのが、日本史における縄文モード、弥生モードの変遷論であり、昭和に入って既に縄文モードへの転換が始まっていたのが、終戦を契機に一挙に縄文モードが深化した、という説だった。
 その後、この説を基本的に維持したまま、第2部でご披露する新たな説・・ある意味、深刻な説・・を付加的に打ち出し、現在に至っている。

 2 私独特の用語の紹介

 (1)人間主義・・『人間の学としての倫理学』にヒント

 和辻哲郎の『人間<(じんかん)※>の学としての倫理学』について、私は、次のように紹介したことがある。↓

※以下、基本的に、「じんかん」は「人間」、「にんげん」は「人間(にんげん)」、と記す。

 「「人間<(じんかん)>」とは、輪廻転生の五道(六道)の一つを表す仏教用語(漢語)であって、本来は「人(human、man)の世界」を意味し、「人」の意味はありません。(「人間萬事塞翁馬」<(注6)>という用例を想起せよ。)

 (注6)「(読み)ニンゲンバンジサイオウガウマ・・・[由来] 「淮南子―人間(じんかん)訓」に載っている話から。・・・「人間」を「じんかん」と読み、「世の中の運不運は見極めがたい」という意味だとする解釈もあります。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E9%96%93%E4%B8%87%E4%BA%8B%E5%A1%9E%E7%BF%81%E3%81%8C%E9%A6%AC-593690
 これ↑が現時点での読み方だが、和辻は、この場合の「人間」を「じんかん」と読むことを当然視していたし、私もそういう認識だった次第。(今でも同じ認識だが・・。)

 しかし、日本ではそれが「人(ひと)」と同じ意味の言葉として転用されるようになりました・・・。それは、「ひとの物を取る」、「ひと聞きが悪い」、「ひとをばかにするな」のように、もともと大和言葉の「ひと」には、「他人」、「世間」、「自分」の三つの意味があった・・・からです。
 このほかにも日本語には、「人(ひと)」=「人間(にんげん)」、に関連する言葉で同じように複合的な意味を持つ「兵隊」、「友達」、「なかま」、「郎等」、「若衆」、「女中」、「連中」などがあります・・・。
 これらのことから日本人は、「人が人間(にんげん)関係に於てのみ初めて人であ<る>」・・・と考えているとし、この考え方には普遍性があると和辻は主張したのです。
 これは、欧米の個人主義と全体主義(私に言わせれば、英米の個人主義と欧州の全体主義(後述))のいずれをも批判する含意を持つ主張でした。
 すなわち和辻は、「アリストテレス<は、>考察の便宜上個人的存在を抽象し」・・・ただけだったのに、「近代・・ブルジョワ社会<は>、・・恰も現実に於て<個人が存在する>かの如くに見」て「個人主義的な思想を生み出す」に至ってしまった・・・と個人主義を批判するとともに、「マルクス・・は、人間(にんげん)存在に於て特に『社会』の契機をのみ捕」えた・・・とし、全体主義も批判したのでした。」(コラム#113)

 (「近代・・ブルジョワ社会」↑は「イギリス(アングロサクソン)社会」としなければならないけれど、そのことはさておき(太田)、)「和辻哲郎にとって風土論は、彼の人間論と密接な関係にある、というより人間論の不可分の要素となっている。和辻にとって人間(にんげん)とは、個であると共に全体でもあるが、その全体とは人間(にんげん)の共同態としての社会的な性格のものであり、そこには人間(にんげん)の間柄が働いている。風土というのは、この間柄のあり方を根本的に規定しているのである。したがって風土とは、言葉の表面的な意味から連想されるような単なる自然のあり方ではなく、人間(にんげん)の生き方そのもの、「人間(にんげん)が己を見出す仕方」としてとしてとらえられている。人間(にんげん)は風土を離れて存在し得ない、風土が人間(にんげん)を作る。そのように和辻は考えているわけである。和辻は風土を三つの類型に分け、それぞれをモンスーン型、沙漠型、牧場型と命名する。・・・<その上で、>各類型に進歩の段階だとか、価値の優劣はないのであり、それぞれ対等なものなのだと強調した<。>」
https://philosophy.hix05.com/Japanese/watsuji/watsuji03.huudo.html
 しかし、私見では、和辻の過ちは、ヒトを「人間(「じんかん」由来の「にんげん」)」と表現するのが日本だけなのはどうしてかを追究しなかったところにある。
 私に言わせれば、ヒトが「個であると共に全体でもある」社会・・私はこれを人間主義社会と名づけている・・は、現代においては日本だけなのだ。
 (人間主義(にんげんしゅぎ)はヒューマニズムの訳語だが、私の人間主義<(注7)>(じんかんしゅぎ)は「人は人間(にんげん)関係においてのみ初めて人であるという考え方」(コラム#113)であって、それとは全く異なったものであることに注意。)

 (注7)人間(じんかん)主義性とほぼ同じ意味を持つ言葉:真心(まごころ)、もののあはれ(ここまでは本居宣長の用語)、大和魂(紫式部の用語)、たおやめぶり(賀茂真淵の用語)、惟神(かんながら)の道(不明)(コラム#14163及び下掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AB%E3%81%B2%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%B3 
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%8F%E7%A5%9E%E3%81%AE%E9%81%93-471069 )

 そして、イギリスのような平時には個人主義で有事には集団主義になる社会(コラム#88、89)も、欧州のような階級社会(コラム#92)転じて全体主義社会、も、ヒトが自分の一族郎党(コラム#14161)の中では縄文人ないし集団主義者としてふるまうがその外では弥生人ないし非集団主義者(下出)としてふるまう社会も、人間主義社会ではないのだ。
 (但し、イギリスは人間主義的社会であるとは言える。(コラム#3954)) 
 日本はどうして人間主義社会になったのだろうか。
 それは、日本が、古今東西、極めて珍しいところの、定着的な狩猟採集社会である縄文時代を1万年もの間経験したからだ、と、私は考えている。(コラム#14163の囲み記事[戦争–国家の起源論再訪]参照)
 では、過去に、日本以外の人間主義社会はあったのだろうか。
 一つは、BC2600~BC1800年に存在したインダス文明社会がそうだ。
 権力者がおらず、人々は平等で、平和であったと思われるからだ。↓

 「インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡<も>見つかっていない。周塞<(さい)>の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる<が、>モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない。・・・
 <また、>被葬者間に際立った社会的格差が見られない<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E

 周塞(都市城壁)がないということは、恐らく軍備もなく、平和が維持できたということなのだろうが、そんなことが可能だったのは、社会内が平和であったことはもちろん、外敵もいなかったからだと思われるところ、その理由を、私は、殆ど四周が荒廃地でそこを外敵が軍勢を率いて踏破することが困難であった上、唯一荒廃地ではない南東方面には友好的でかつ未開な、恐らく狩猟採集民たる同族・・現在のドラヴィダ人・・が住んでいたからだと推測している。(コラム#7164、7166、7304)
但し、どうして、インダス文明が人間主義社会になったのかは不明だ。
 いずれにせよ、インダス文明社会は、農業革命後の社会だが、同革命より前の・・基本的に農業社会と併存・交流することになったところの「後の」狩猟採集社会では断じてないことに注意・・狩猟採集社会は基本的に全て人間主義社会だったと私は考えている。
 「人が戦争を始めるのは基本的に約1万年前より後の時代であり、農耕に伴う生活様式の変化と人口増加が始まる時期と一致している。」(コラム#14163の囲み記事[戦争–国家の起源論再訪]参照)ことがその傍証だ。 

 (2)集団主義・非集団主義

 日本人の大部分は人間主義者(縄文人(後出))であり、日本人が集団主義者というのは誤解で実は非集団主義者なのだ。↓

  「計22件の研究の結果をみると・・・、通説に反して、<集団主義的であるかどうかで>「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」という結果を報告していた研究が16件、通説とは正反対に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」という結果を報告していた研究が5件もあった。
 一方、通説どおり「日本人はアメリカ人より集団主義的」という結果を報告していた研究は、わずか1件(調査研究)しかなかった。」(コラム#11047)
 一例だけ挙げるが、「「自粛警察」<は、>・・・法的・公的な規制があるわけではないのに,営業している店やマスクをつけない人に対して,「店を開くな」とか「家から出るな」といった誹謗中傷を浴びせたり嫌がらせをすることで,不適切と思われる行動を抑えようとすることである<ところ、>自粛警察は,「周りと違うことをするのは許されない」ので,そういった行動は処罰されるべきであるという「同調圧力」が端的に表われており,集団主義の証左であるといわれ<ているが、>・・・調査<してみると、>・・・日本人は「自粛警察」という考え方に同意する割合が・・・低<く>,英米伊も中国も日本より有意に高い<という結果が出>る。」
https://www.teamspirit.co.jp/workforcesuccess/diversity/groupism.html
 「・・・日本人は自分がもっとも得をするようには行動せず、自分が得をすることよりも、相手のタダ乗りを許さずに、少しでも相手の足を引っ張ろうとする傾向があります。こうした経験をしてしまうと、タダ乗りを狙っていた人も次回からは参加せざるを得なくなる。したがって、日本の社会では、みんなが仲良く協力的に事に当たっているのではなく、協力しないと罰を受けると分かっているから協力せざるを得ない社会だということが示唆されます・・・
 日本人は「不安遺伝子」と呼ばれるセロトニントランスポーターSS型を持つ人の比率が、他の国に比べて圧倒的に高いのだ。・・・
 SS型は不安を感じやすいだけではなく、他人に対して言葉による攻撃をしやすい傾向にあることも分かっています。つまり、遺伝子的にも日本人は他人に与える罰が過激になりやすいと言えるのです・・・(コラム#13945)
 「調査では、OECD諸国の中で、人付き合いが滅多にないと答えた人の割合がもっとも多かったのが日本<だ。>」(コラム#14121)

 (3)日本文明/プロト日本文明

 「理念」によってつくりだされた「世界像」<が>、きわめてしばしば転轍機(スイッチ)として文明を決定し、その文明の上を利害のダイナミックスが人間(にんげん)の行為を推し進めてきた」(上述)ことの具体例を第二部でお示しするが、ここでは、プロト日本文明は縄文性だけの文明、日本文明は縄文性と弥生性からなる文明、とだけ覚えておいて欲しい。

 (4)日本文明モード転換論

 日本文明は、縄文性の強い時代と弥生性の強い時代とを繰り返してきた。
これに類することを、中西輝政、中村忠之の両氏も、用いている言葉はともかくとして、唱えているらしく、それ自体は私の独創ではなさそうだ。
 但し、この2人と私とでは、恐らく時代の区切り方で違いがあるはずだ。(以上、コラム#4140)
また、私の場合、弥生モードの時期を、内戦ないし外敵との戦いが頻発する時期、縄文モードの時期を、それに対する(一万年間の平和な縄文時代についての潜在的な正の記憶に基づく)揺り戻しの時期、とも見ているところだ。(コラム#4142、4144、4493)
そして、私は、かねてより、日本の文献的記録のある歴史を、1.拡大弥生時代(紀元以降)、2.第一次縄文モード時代(平安時代=プロト日本文明から日本文明への移行期。桓武天皇が転換示唆)(コラム#14199)、3.第一次弥生モード時代(鎌倉、室町、安土桃山時代。後白河天皇が転換示唆)(コラム#11921)、4.第二次縄文モード時代(江戸時代。後陽成天皇が開始)(コラム#9911)、5.第二次弥生モード時代(明治、大正時代。孝明天皇が「転換示唆」)(後述)、6.第三次縄文モード時代(昭和時代以降。昭和天皇が転換示唆)(後述)、に区分してきた。
 (コラム#10336。但し、その間、嵯峨天皇を桓武天皇に変更している。
 なお、孝明天皇の転換示唆が鍵括弧付きなのは、同天皇は自分では転換させるつもりがなかったため。)
その後、6を、第三次縄文モード時代(昭和時代以降。但し、日本文明からプロト日本文明への回帰期でもあり、もはや弥生モードへの転換はありえない。昭和天皇が開始)、へと微修正したが、これは、考えようによっては、大修正かもしれない。
 なお、拡大弥生時代は、弥生時代と第一次縄文時代の間、というだけで、開始時期も開始者も不明だったが、現時点では、上述したように、開始時期は、弥生人ならぬ渡来人が渡来し始めた時期であって、渡来人が渡来を始めたのは、新末後漢初の争乱(17~36年) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9C%AB%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E5%88%9D
がきっかけになったと私は想像するに至っており、彼らによって、日本で初めて国家群が生誕したと考えられるところ、そのことを象徴するのが、漢委奴国王に対する、「「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」」(『後漢書』)である、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0 
と考えるに至っている。

 (5)日本における理念

 ここでは、プロト日本文明を日本文明へと変換した大理念(grand design)が聖徳太子コンセンサス(これに基づいてplanningをしたものが桓武天皇構想)、そして修正大理念(revised grand design)が広義の日蓮主義(これに基づいてplanningをしたものが島津斉彬コンセンサス、programmingしたのが杉山構想)であって、日本文明をプロト日本文明へと回帰させた大理念(grand design)を作り、維持してきたのが昭和天皇/岸カルト、と覚えておいて欲しい。

(6)日蓮主義(拡大日蓮主義)

 「日蓮主義・・・とは、・・・日蓮の妙法蓮華経(法華経)至上主義の理念を、国柱会の創設者・田中智學(ちがく)と顕本法華宗元管長・本多日生(にっしょう)を中心に明治期に近代主義的に体系化した仏教思想である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ところ、私が、日蓮主義を、日蓮本人から始まるものへと拡大した「日蓮主義(拡大日蓮主義)」は、そんな武士=縄文的弥生人、の弥生性を国内で発揮させず、国外で発揮させることでもって、国内に平和をもたらすとともに、国外に縄文性と縄文的弥生性<すなわち、日本文明、>を普及させ<ようというものだ。>」(コラム#11375)

 (7)中原文明(華夏文明)・江南文明・漢人文明

 黄河文明の末期における、「夏」・殷・(戦国時代を含む)周、という、中原(華北平原)に存在したところの諸「国」、の時代を一つの小文明と捉えたものであり、その特徴は、発展性と近代性にある。
 (「夏」に「」をつけたのは、実在したかどうか決着がついていないからだ。
 なお、つい最近まで、私は、黄河文化と江南文化という言葉を用いてきたが、それぞれを黄河文明と江南文明へと言い換えると共に、黄河文明の末期を中原文明(華夏文明)とした、と言う経緯がある。)
 江南文明という言葉は、一般に用いられている長江文明という言葉では、長江の中流域は中原文明地域でもあったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
から、紛れが生じうるところ、この紛れを回避するために私は用い始めたものであり、その特徴は、緩治と軍事軽視にあって、日本史上の弥生人と渡来人、とりわけ、渡来人は、この江南文明人と親縁関係にある、と、私は見るに至っている。(コラム#14163も参照)
 ちなみに、「渡来人」に関しては、古代に東アジアから日本に渡来した人々及びその子孫、という広義の意味と、3世紀末~6世紀のそれという狭義の意味とがある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA
が、私は、その中間であるところの、1世紀初~6世紀という、漢の衰退に始まり隋の支那再統一に至る時期のそれ、という意味で用いるに至っているところであり、ヤマト王権の成立どころか、漢委奴国等の形成も、渡来人の影響だった、と見ている次第だ。
 で、漢人文明についてだが、漢成立時に、上出の江南文明が中原文明を吸収して形成されたものであり、その基調は江南文明的であって、支那に超長期にわたる停滞をもたらした。
 この文明は、タテマエは法家の思想・・法制定権者は法に羈束されないのと、法の不遡及なるルールが存在しないことからタテマエに留まる(コラム#14162)・・、と、儒教・・孔子の思想を曲解的にドグマ化したもの(コラム#14138から始まるシリーズ参照)・・、だが、ホンネは墨家の思想・・兼愛非攻(博愛精神による平和主義)の実現のために「義<・・人民にとっての大利
https://kotobank.jp/word/%E7%BE%A9-49809
・・>の解釈権を君主が独占し、その義を全家臣及び民衆<は>信じ、<余計なことをせず、ひたすら>生活必需品の増産に勤しまなければならない、という、・・・<即物的な>全体主義思想<だ。>」(コラム#1640)
https://kotobank.jp/word/%E5%A2%A8%E5%AE%B6-132676 (コラム#7177も参照)

 (8)支那/中共/日支戦争

地名と国名を区別するためには、前者に支那、後者に、漢、清、中華民国、中共、等、を用いるのが適切であり、「中国」ではどちらのことを指しているのか分からない上、国を指しているのが明らかな場合においても、どの王朝/政権を指しているのか必ずしも明らかではない。
 また、これに伴い、日本では日中戦争と呼ばれるに至っている戦争についても、この戦争の途中で親日の中華民国政府ができていること等から、日支戦争、と、私は呼称している。
 (なお、「アメリカ」については、アメリカ大陸なる地名とアメリカ合衆国という国名とを区別するために、私は、国名については、「米国」を用いることにしている。
 また、一般には「イギリス」、その一部は「イングランド」、が用いられているところ、私は、「英国」、その一部は「イギリス」、を用いている。)

 (9)古典ギリシャ文明

 「古代ギリシャ<文明>の・・・古典期(前6世紀 – 前4世紀)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E
を一つの小文明と捉えたものであり、その初期の中心は古代ギリシャ語中のイオニア方言を用いたイオニア学派やヘロドトス、中期/後期の中心は古代ギリシャ語中のアッティカ方言を用いたアテナイのプラトンら(上掲)、が活躍した。

 (10)文明の継受

 表記の言葉を含め、私だけが指摘していることだが、757~759年の新羅による漢人文明継受(プロト日本文明的文明から漢人文明への文明の乗り換え)(コラム#14163)、2012年からと目され、現在進行形の中共による日本文明総体継受(コラム#8407、14163)、という二つの事例がある。
 なお、プロト欧州文明から欧州文明への移行は、アングロサクソン文明の継受を意図したものだったが、同文明の歪曲された認識に基づいたものだったので、継受に失敗した結果としてなされたものである、というのが私の見解だ。(コラム#1256)

 (11)拡大枢軸の時代

 枢軸時代(Achsenzeit=Axial Age。BC800年頃~BC200年頃)はカール・ヤスパースが唱えたものだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
が、これを、人間主義の喪失に対する危機意識の時代、と、捉え直し、誤って、利他主義を唱えたイエス、や、正しく、慈悲(注8)(人間主義)を提唱した『法華経』、の出現を含めるために、その終期をAD100年頃まで延ばしたのが、私の拡大枢軸の時代だ。(コラム#14163)

 (注8)「他<者>に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。・・・これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2
 「この慈悲心・・・は,他者という意識もなくなった徹底した自他不二の無我の心境,すなわち捨の心から発せられるべきものであると<される。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%85%88%E6%82%B2-74800

 (12)弥生的縄文人/縄文的弥生人

(後で説明)
 
(13)モンゴルの軛

(後で説明)

 (14)プロト欧州文明/欧州文明

 私の言うプロト(注9)欧州文明は、アングロサクソン文明のような、(平時においては)個々人それぞれの意思を重視する個人主義文明、にして、非封建文明、にして、反カトリック的文明、とは違って、(平時有事を問わず、ルソーの言う)一般意思(注10)を重視する文明であり、また、封建文明にしてカトリック文明でもあった。

 (注9)「一番目、初期または元の物を示す。」
https://www.ei-navi.jp/dictionary/content/proto/
 (注10)「ルソーによれば,国家は各個人が自己を共同体全体に対して全面的に譲渡するという全員一致の契約によって設立される。この社会契約によって国家は一個の意思をもった単一の人格として成立するが,この公的な意思こそが一般意思にほかならない。一般意思は,この共同体=国家の公的な利益を基礎とする意思であり,構成員各員の特殊意思の総和である全体意思とはまったく異なる次元にあるとされる。この一般意思の表現こそ法である。かくて法に従うことは一般意思の命令,すなわち,みずからがその一部をなす人民=主権者の意思に従うことにほかならない。ルソーのこの規定によって,法はその制定における意思の一般性と適用における対象の一般性とを獲得するのである。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%8F%E6%80%9D-818014

 そして、私の言う欧州文明は、大陸欧州西/中部において、1291年に初めて封建制を打ち破って、A:領域国家、を形成したところの、スイス、において、1523年にツヴィングリによって、B:宗教改革運動(反カトリック運動)が始まったこと(コラム#61、及び、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 )、を淵源として、18世紀に、(AとBを同じくするところの、)、C:アングロサクソン文明の総体継受、がフランスとスイスで始まり、やがてそれがドイツに波及した(私見及び
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3 )結果、成立したところ、一般意思の重視がプロト欧州文明から引き継がれていたため、アングロサクソン文明の総体継受は偏頗にして歪曲された形で行われざるをえず(既述。後出の「カ イギリス人」のところも参照)、その結果、アングロサクソン文明と欧州文明とは鋭く対立したまま現在に至っている、というのが私の考えだ。
 イギリスが主導している英国が、EUへの加盟が遅れた挙句、結局、EUから離脱したのは、文明が異なる以上、イスラム文明に属するトルコがEUに加盟できないのと同じく、いわば必然だったのだ。

(15)拡大ゲルマン人大移動

 (後で説明)

 (16)先の大戦

 「多くの場合「先の大戦」「先の戦争」で誤解なく通じます。しかし、・・・この「戦争」は1941年12月を起点にするのか、それとも37年から始まる日支戦争を含めてのことか、はたまた十五年戦争の起点となる柳条湖事件(31年)からなのか――が分からないという問題があ<る>。」
https://salon.mainichi-kotoba.jp/archives/69213
 私の場合、最後の1931年からの意味で用いている。

 3 頭の整理

 (1)人間(にんげん)の類型

  ア 縄文人(人間主義者)
   ・日本史上の縄文人とは区別される理念型としての縄文人
   ・その例1:農業革命前の狩猟採集社会の人々の大多数(既述)
   ・その例2:インダス文明人・・(既述したように)殆ど四囲が荒廃地で東南方方を未開の同民族で守られていた。無政府主義的かつ非教義宗教的。成立要因は不明。
   ・その例3:縄文時代及びそれ以後の日本列島住民の大多数・・島国なので海によって守られていた。やはり、無政府主義的かつ非教義宗教的。成立要因は、一万年もの間、本格的な農業社会に入る前に定住生活の狩猟採集社会に生きてきたため、本格的な(水田稲作)農業社会に入り、富の集積や偏在が生じても、人々の意識が余り変化しなかった、と考えられる。(コラム#49、276)

  イ 弥生人

   (ア)騎馬遊牧民
    ・弥生性が跳ね上がった契機は鐙の誕生
 「鐙が出現するまで、騎乗者は両足の大腿部で馬の胴を締め付けて乗馬していた。姿勢は不安定で、馬の激しい動きに追従するのは難しかった。特に軍事目的で馬を利用する場合、不安定な姿勢で武器を使うのは極めて困難であった。このため騎乗したまま戦う技能(騎射など)は、騎馬民族以外には長期間の鍛錬が出来るごく一部の貴族階級が有する特殊技能であった。
 鐙のルーツは西晋時代の<支那>もしくは満洲に在り、・・・発明されたのは西暦290~300年頃とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%99 (コラム#4910、4930、10982も参照)
    ・支那以外にも食指を伸ばした、匈奴(鐙前)、モンゴル
    ・支那にだけ食指を伸ばした、鮮卑、女真、等
    ・支那以外にだけ食指を伸ばした、広義のアラブ人
      弥生性が跳ね上がった契機はイスラム教の形成
      弥生性が近年再び跳ね上がった契機はIT社会の到来(コラム#7444) 
    
   (イ)ゲルマン人
    ・印欧語族は、牧畜と農業を両輪としており、移動ひいては拡散志向だった。また、多神教を信じていたが主神がいた。
 分化後も、イラン・アーリア人、ケルト人、ギリシャ人、が大移動し、拡散している。
    ・印欧語族中、ゲルマン人も大移動し、拡散しているが、そのプロセスが、長期にわたって領域獲得的ではなく山賊・海賊的であった点で、印欧語族中では特異。
 そのゲルマン人弥生性が跳ね上がった主たる契機は北欧神話(コラム#74、10813)の形成であり戦うことが自己目的化した。
 私は、そんなゲルマン人の大移動を拡大ゲルマン人大移動と名づけており、都合4次に分けている。(一般に、ゲルマン人大移動とは、私の言う第二次ゲルマン人大移動を指す。)(コラム#10813)

     第一次ゲルマン人大移動–現在のドイツ等へ南下

     第二次ゲルマン人大移動–旧ローマ帝国西部の征服
      ローマ帝国西部の征服、と、ローマ帝国旧領(ブリテン島中・南部)の征服、からなる。

     第三次ゲルマン人大移動–欧州東部と欧州最南部征服
      カロリング家による旧西ローマ領外ゲルマン人の征服(ローマ化)
      ヴァイキングのロシア征服(スラヴ征服1)
      ヴァイキングの南イタリア「征服」:11~12世紀
      北方十字軍:12世紀央~16世紀(スラヴ征服2)

     第四次ゲルマン人大移動–地理的意味での欧州外へ:
      ポルトガル:エンリケ航海王子は、ゲルマン系のポルトガル王家の王子だが、同じくゲルマン系のイギリス王室の王子の子を母としており、後に、キリスト騎士団の終身指導者となった人物であり、彼がいわゆる大航海時代の先駆けだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B1%E8%88%AA%E6%B5%B7%E7%8E%8B%E5%AD%90 (コラム#10813も参照)
      スペイン:略
      イギリス:ゲルマン人を支配階層に戴く諸国↑↓中、イギリスだけは縄文人的(人間主義的)。
      (ロシア:ロシア人は、ヴァイキングによる「征服」によってまずゲルマン人的になり、次いで重畳的にモンゴルの影響で騎馬遊牧民化、したところの、モンゴルの軛症候群患者たるスラブ人、であり、ゲルマン人もどき、といったところか。(コラム#7088)
 なお、私が「タタールの軛」をあえて「モンゴルの軛」としてきたのは、「タタール」が多義的だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
からだ。)
      オランダ:略
      フランス・ベルギー:略 

 日本は、6世紀末の鮮卑系の隋から始まり女真人の清にまで至る騎馬遊牧民の脅威、16世紀から始まったゲルマン人の脅威、17世紀から始まったところの以上の2つが混交したロシアの脅威、(7世紀に始まったが日本は埒外であり続けてきたところ)20世紀に再び高まったところの広義のアラブ人の脅威、への対応を余儀なくされてきた。

  ウ 弥生的縄文人と縄文的弥生人

    (ア)弥生的縄文人
 弥生的縄文人は、江南文明の全員、及び、秦帝国以降の(元を除く)支那統一諸王朝の支配層(被支配層は普通人)、並びに、日本の拡大弥生時代及び第一次縄文モード時代の支配層(非支配層は縄文人)。(コラム#14128、14163、等)

    (イ)縄文的弥生人(コラム#7808)
 (昨今、「<1.>縄文人の祖先集団、<2.>北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡ってきた集団、そして<3.>東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡ってきた集団の三集団の混血により日本人が形成されたという・・・三重構造モデル」(コラム#14165)が有力視されつつあるが、私は、2.を江南人と朝鮮半島南部人の混血、3.を江南人、と、見ており、2.と3.をひとくくりにして改めて広義の弥生人と総称した上で、2を弥生人、3.を渡来人、と呼び分けることにすればよいのではないかと考えている。)

  エ 普通人

 普通人は一族郎党を形成する人々。
 古今東西の諸政府の大部分は機能不全状態にあるところ、かかる政府の下に長期間にわたって置かれた人々の類型。従って、農業革命以降は、古今東西、人間(にんげん)は普通人が圧倒的多数を占める、というのが私の見方だ。(コラム#14163の囲み記事の[普通人について]と[一族郎党について]を参照。)
 ちなみに、中原文明(夏華文明)においては、支配層が縄文的弥生人で被支配層が普通人だった。
 (但し、秦王政(始皇帝)の頃には、秦の支配層は楚の影響で弥生的縄文人化していた。)
 支那において、この文明の末期の戦国時代に普通人の思想を明文化したのが楊朱(ようしゅ。BC370?~BC319?年)だ。(コラム#14142、14163)

 以上のように人間(にんげん)を類型化することで、プロト日本文明や日本文明下の人間(にんげん)類型のユニークさと普遍性が明らかになってくる。

(2)天才民族

  ア ユダヤ人(背景に迫害)
   (ア)イエスとマルクス・・天才的なフィクションとしての人間(にんげん)世界観創作者
   (イ)アインシュタイン・・天才的自然世界観創作者

  イ 古典ギリシャ人(背景に、比較的同質の都市国家間戦争、と、異質のペルシャ帝国との戦争)
   (ア)広義のイオニア学派・・・歴史書(ヘロドトス)、演繹科学創始、
   (イ)ソクラテス/プラトン/アリストテレス・・・理想的政体論概成(直接民主制否定)

  ウ 中原人(華夏人)(背景に春秋戦国時代の戦争)
   (ア)孫武・・戦略論を創始、概成
   (イ)孔子・・人間主義論を創始

  エ 準天才民族のインド・アーリア人
   (ア)釈迦(背景に十六大国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD
の時代の戦争)・・人間主義環境(縁起)を発見。但し、政治目的での不純性あり。(コラム#13759)
   (イ)『法華経』の執筆者達(背景にマウリヤ朝の弱体化、滅亡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
)・・人間主義論を概成(慈悲論)。但し、マーケティング目的での不純性あり。(同上)

  以上、ア~エは、拡大枢軸の時代ないしはその時代における天才諸民族だが、以下は、それ以降の時代における天才2民族だ。
 なお、科学技術が古典ギリシャ人と中原人(華夏人)によって著しく発展した背景には戦争・緊張状態が長期にわたって続いた(コラム#14036)こと、そして、同じことが、アングロサクソン文明とプロト欧州文明/欧州文明における科学技術の発展についても言えること、が銘記されるべき。
 戦争が(文理にわたる)発明の母であることは、現代においても、なお、真実なのだ。
http://natsumedia.sonnaanatani.com/invention-war/ (←理の例ばかりだが)

  オ 日本人

   (ア)厩戸皇子・・日本文明的なもの(その内在的脆弱性を克服した人間主義社会を模索)を構想(聖徳太子コンセンサス)(コラム#11164、11192)
   (イ)日蓮・・上記構想を日本文明の世界への普及を目指すものへと修正した((私の)日蓮主義)(コラム#11375)
   (ウ)島津斉彬・・日蓮主義に基づく実現可能な計画を策定(島津斉彬コンセンサス)(コラム#9902)
 (具体的には第二部に譲る)。

  カ イギリス人

   (ア)グロステスト/ロジャー・ベーコン/ウィリアム・オッカム・・近代科学(経験科学)創始(プロト欧州文明との文明間戦争が生み出す)(コラム#46)
   (イ)1689年の名誉革命において(「King-in-Parliament」と「貴族院」を含む)国会主権(Parliamentary sovereignty)・・三権分立否定!・・なるギリシャ人ポリュビオス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B9
の言う理想的政体(混合政体)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E5%90%88%E6%94%BF%E4%BD%93
を再確認。
https://en.wikipedia.org/wiki/Parliamentary_sovereignty_in_the_United_Kingdom
 (共和制ローマも、元老院・政務官・民会からなる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E
ところの、同時代人たるポリュビオスの言う理想的政体、を実現したかに見えたが、その理想的政体を維持できた期間を既にイギリスは上回って久しい。)
 理想的政体を縛る法規など必要がない筈であり、現にイギリスには憲法がない。
 (もとより、イギリスにも憲法的法規は存在するが、それ以外の一般法規と同様の手続きで理論上は改廃ができる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%96%87%E6%86%B2%E6%B3%95 )
従って、当然、裁判所に違憲立法審査権もない(コラム#10261)し、本来は人権観念もなく(コラム#384、4884、10261)、しかも、本来は反民主主義だ(コラム#91)。
 それを象徴しているのが、私がロンドンにいた1988年3月6日の英領ジブラルタルでのテロリスト疑いのIRA要員3名(うち1名は女性)・・結果的には武器も爆弾も保持していなかったことが判明・・の、SAS隊員による問答無用の射殺であり、これらSAS隊員に何のお咎めもなかったことだ。(コラム#384)
 なお、主要政党の幹部クラスや高級官僚には、基本的にイートンを筆頭とするパブリックスクールを経てオックスブリッジ教育を受けた者が就く「慣例」が成立しており、軍事素養教育・・パブリックスクールでは必修・・を受けた高度な知性を持った人々による「哲人政治」が実現している。(コラム#81、741、2474、2974も参照)

 (3)欧米三文明

  ア アングロサクソン文明
   ・イギリス(除くスコットランド、北アイルランド)、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの文明。
   ・平時の個人主義・・但し、企業等の団体は固い組織(コラム#5088)の下での集団主義・・と人間主義的統治、有事の集団主義・・社会全体の固い組織化・・。(なお、コラム#128、207、806、8430も参照)

  イ 欧州文明
   ・プロト欧州文明(コラム#544~547、552)の仏独等が、アングロサクソン文明のイギリスに対抗すべく同文明を誤解して継受した結果形成されたもの(コラム#6583、6585、6587、6589、6591、6593、6595、6597、6599、6943、6945、6947、6949、6951、6953、6959))
   ・欧州文明は多数の接壌国からなるため平時から有事即応体制を維持しようとしてきた。

  ウ 米国文明
   ・米国文明は、北米英領諸植民地の主要部分によるところの、米独立革命、によって形成された、アングロサクソン文明と欧州文明のキメラ(コラム#502)
   ・米独立革命は、北米英領諸植民地の主要部分が、インディアン地域侵略とイギリス軍事費分担逃れをホンネの目的として、国会主権の否定を前提としたところの、権力分立(モンテスキュー)、人権、等、を、欧州文明から借用してタテマエ上の目的として掲げて武装反乱を起こし、独立を果たしたもの(コラム#7059。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B8%BB%E6%A8%A9 も参照)

 (通常は、西欧文明、とか、欧米文明、と一括りにされ、私のように三つに分ける人は寡聞にして知らない。いずれにせよ、ロシア亜文明や中南米亜文明・・と、私は呼称しているところの、欧州文明系の2つの文明・・は別扱いになる。)

第二部 先の大戦と戦後日本

 1 始めに

 実は、大久保利通の子でシャーロッキアンだった牧野伸顕(1861~1949年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
が、日本にとって先の大戦は何だったのか、そして、日本の戦後はどのように規定されることになるのか、を、「ホームズ」に解明させる目的で意図的に残した2つの手掛かりが、それぞれ、『島津斉彬言行録』(1884年)の自身の序文付での復刊(1944年11月5日)、
https://www.iwanami.co.jp/book/b246286.html
と、(私の想像ながら)旧憲法下での事実上の最後の元老としての娘婿たる吉田茂の2度にわたる昭和天皇に対する首相任命推薦・・1945年10月(吉田が受諾拒否)と1946年5月(吉田が受諾)・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
である、ということを発見したと私が信じたことが、一筆書き・家理念/軍事重視史観による日本史全体の解明へと私を導いたのだ。
 すなわち、
一、前者に関しては、島津斉彬コンセンサスの「発見」とそこからの歴史の、遡行(による聖徳太子コンセンサス、桓武天皇構想、日蓮主義の「発見」)と順行(杉山構想の「発見」)、へと、私なる「ホームズ」を導き、
二、後者に関しては、戦後における牧野伸顕のシャーロッキアンとしての後継者が吉田茂であることを私に気付かせ、その吉田茂の、1945年10月の首相就任拒否と1946年5月の受諾(注1)、及び、亡くなる3年半前の85歳での1964年4月の米国の首都のワシントンにおけるマッカーサーの葬儀出席(注2)、1951年9月の旧安保への単独での署名(注3)、並びに、1952年11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際での昭和天皇への「臣茂」自称(注4)、を、吉田が意図的に残した4つの大きな手掛かりであることを発見させ、昭和天皇こそが日本の戦後の規定者であることの発見へと私を導いたのだ。

 (注1)就任拒否は、昭和天皇の指示に従ってマッカーサーに非武装憲法策定指示を依頼にいく役割を担うことを拒否したもの。(代わりに幣原喜重郎に話をつけ、彼を首相にして、それをやらせた。)また、就任受諾は、幣原に対し、首相を引き受けてそんな国賊的な役割を演じてさえくれれば、次には自分が首相になってこの非武装憲法を成立させてあげると約束し、それを実行するため。(コラム#12833。但し、細部、見解変更部分がありうる(以下同じ)。)
 (注2)主権回復後の日本を(占領軍による指示を受けての憲法第9条第2項の削除の実現)といった理想的な形でスタートさせるべく、主権回復の前に再び首相に復帰させる手筈を、約束通りにマッカーサーが整えてくれた恩義に対する返礼。(同上)
 (注3)昭和天皇の介入によって、旧安保・・新安保も同じだが・・が日本を米国の保護国(属国)にする内容の不本意なものになってしまったので、吉田が一人でその全責任を国民に対して負うことを宣明したもの。(同上)
 (注4)1952年9月の日本のいわゆる主権回復が、自分は不同意ながら昭和天皇の意向に従って行われたものであることを、日本の歴史の知識・・文久4(1865)年の孝明天皇による攘夷実行の勅命を不服ながら拝受した将軍徳川家茂の奉答書中に「臣家茂」という表現が3度も登場する
<a href=’https://plaza.rakuten.co.jp/yanpuch/diary/202406220000/’>https://plaza.rakuten.co.jp/yanpuch/diary/202406220000/</a> ・・がある人なら分かってくれる可能性がある形で宣明したもの。(同上)

 (なお、本筋から離れるが、吉田茂が、首相就任時に、牧野伸顕の孫娘の夫である武見太郎に対し、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と語った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
ところ、それが、独り歩きしたのは、吉田が武見に広めさせたということなのだろうが、これは、一般には、吉田は外交官として培ってきた持ち前の交渉術を駆使して<長い>歳月をかけて<でも、日本に有利な形での>独立を果たす」
https://archives.bs-asahi.co.jp/ijinden/prg_032.html
という決意表明と受け止められているけれど、そうではなく、先の大戦で実は日本が勝利したことを(終戦後に牧野が吉田に明かした話を踏まえて)示唆したもの、と受け止めるべきだろう。)
 なお、今頃気付いたのだが、貞明皇后が、1945年7月末から8月初頭にかけて三神社に戦勝祈願をさせたと目されている(後述)ことも、(決行を同皇后に促した(?))牧野からの「ホームズ」宛のメッセージだった可能性が大だ。

 2 新しい日本史:戦前まで

(1)初めに

 「今回の話を始めるにあたって、・・・私の・・・<一筆書き・理念/軍事重視史観歴史観について、もう少し説明>しておこう。
 まず、第一に、歴史を動かしてきたのは有力者達だ、ということだ。
 第二に、この有力者達は、比較的単純な世界観ないし思想を抱いているのが通例であることだ。
 (なぜなら、非有力者達に対しても、この世界観ないし思想について、その概要ないし一部を伝える、或いは方便を用いて伝える、ことによって彼らを有力者達の下に糾合した方が、利害だけで自分達の下に糾合するよりもコスパ的に望ましいところ、複雑な世界観ないし思想であれば、その概要ないし一部を伝える、或いは方便を用いて伝える、ことすら容易ではないからだ。)
 第三に、この世界観ないし思想は、歴史の方向性というレールを転轍させる天才・・転轍手たる天才・・が創り出すものであることだ。
 以上は一般論だが、日本史の場合、ユニークなのは、ヤマト王権時代から戦前の昭和時代まで、歴史を動かしてきた有力者達が、一貫して天皇家ないしは天皇家ゆかりの人々を中心とする人々だったことだ。
 <だから、私は、自らの日本史観を、一筆書き・家理念/軍事重視史観歴史観、と称するわけだ。>
 そのうち、天智天皇の時代から明治天皇の時代までは、もっと絞られ、天皇家と藤原氏の嫡流家、プラスアルファ、の人々だった。
 これは、天皇家ないし藤原氏の嫡流家の人々が、総体として、概ね、広義の政治的判断を誤らなかったおかげで、天皇家も藤原氏の嫡流家も存続することが許されたからこそであって、いかに、彼らの大部分が、有能かつ自己研鑽を怠らない人々だったかが明らかだろう。
 また、日本史の場合、(この点は古代ユダヤ史と表見的に似通っているが、)転轍手たる(古代ユダヤ史における預言者ならぬ)天才が、間隔を置いて、次々に出現し、それぞれが、それまでの転轍手たる天才達が(ユダヤ人ならぬ)日本にもたらした成果を活かしつつ、その都度、歴史の方向性というレールを新しい方向へと転轍させてきたことだ。
 これらの天才達を私なりに上げれば、天皇家の人々が3人、天皇家以外の人々が4人、であり、それぞれを、ごくかいつまんで紹介すると、次の通りだ。

一、縄文的弥生人を創出すると共にこの創出された縄文的弥生人の縄文性維持方法を発見するとの聖徳太子コンセンサスなる課題を定立したところの厩戸皇子
二、縄文的弥生人の創出という課題への解答として封建制への移行とそれによる武士の創出いう解を示した桓武天皇
三、武士を維持したままでの日本の中央集権制への回帰とその日本による縄文性の国外への普及を訴える日蓮主義を唱えた日蓮
四、日蓮主義を天皇家において採択すると共に、武士の縄文性維持方法として習合臨済宗・・臨済宗、天台宗、真言宗の習合・・を確立させた後醍醐天皇
五、日蓮主義の実行に着手した織田信長とその高弟豊臣秀吉
六、帝国陸海軍なる新たな縄文的弥生人集団を核とする中央集権国家たる日本を創出して、その日本に日蓮主義を完遂させるという島津斉彬コンセンサス・・・を定立したところの島津斉彬
七、島津斉彬コンセンサスを帝国陸軍に実行させてほぼ完遂させることに成功した杉山元(コラム#12103)
 ところで、この他に、転轍手となったところの、問題の人である昭和天皇がいるわけだが、その話は後で改めてしよう。

 (2)聖徳太子コンセンサス

  ア 隋が漢人文明の主となった衝撃

 では、前者の謎かけ「日本にとって先の大戦は何だったのか」の謎解きから始めよう。
 589年に、支那で、漢人文明を形成したところの、江南文明系を支配者とする漢が解体され、魏晋南北朝時代(三国時代→五胡十六国時代→南北朝時代)を経て、ついに、漢人化したところの、騎馬遊牧民の鮮卑系を支配者とする隋が漢人文明の主になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
 ヤマト王権の支配層は、渡来人系で、遡れば江南文明系だった・・江南はジャポニカ米稲作発祥地だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
ことも想起せよ・・こともあり、故郷と日本の双方を案じる強烈な危機意識を抱いたと私は見ている。
 (ヤマト王権の朝貢先は、東晋を含め、旧江南文明地域の諸王朝・・南北朝時代は南朝の宋、南斉、梁・・のみ。(コラム#13759)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B )

  イ 聖徳太子コンセンサスの形成

 そこで、厩戸皇子は、単なる外国たる大国の隋に、対等の立場で、600年に遣隋使・・遣使諸国中の最後!・・を送り、仏教の勉強目的に藉口して要員を派遣し、騎馬遊牧民系勢力に対する軍事的対処方法やこの対処を行う戦士創出方法を密かに探らせると共に、仏教についても、かかる戦士が毀損されるであろう縄文性(人間主義性)を修復する方法を、仏教東伝の主要ルートを扼していた北朝系の隋でしかアクセスできない、まだ日本に伝わっていない仏教の経典群や宗派群の中から(法華経が謳う慈悲行以外のものを)見出だせないか、を、調査させることにした、と、私は見ている。↓

 例えば、仏教に関して言えば、その伝来時期は判然としない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
ものの、遣隋使の1回目は600年であるところ、日本の最初の仏教寺院・・飛鳥寺(法興寺)・・が百済の技術者の助けを借りて596年に完成し、百済僧や高句麗僧も住持して「開業」している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%85%88
ことから、仏教のソフトについてもハードについても、大金を使ってまでして、わざわざ隋に直接赴いて学ぶ必要などなかった筈だ。
 また、「『日本書紀』によると、513年、百済は倭国に五経博士段楊爾を貢したが、3年後に段楊爾を帰国させ、かわって漢高安茂を貢し、554年に馬丁安にかえ、王道良、王柳貴、王保孫、王有㥄陀、潘量豊、丁有陀を倭国に貢した(貢した=「貢ぎ物を差し上げる」)と記録している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E5%8D%9A%E5%A3%AB 
ところ、「五経博士<は、>・・・儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E5%8D%9A%E5%A3%AB
のことだから、儒教もまた、既にきちんとした形で伝来していた。
 更に、支那の諸制度については、南朝‥当時は宋・・への478年の最後の遣使までの間に、累次の宋への遣使で宋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E5%8D%97%E6%9C%9D)
の制度の調査が行われていた筈であり、その際に北朝・・当時は(隋と同じ鮮卑系の)北魏・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
の制度も宋を通じて調査できたし実際調査を行ったと思われる上、それほど改めての調査が必要だったとは思われない。
 実際、傍証となる以下のような事実がある。
 「伊東忠太によれば、法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。・・・
 <また、>杉山正明によれば、日本の源氏という皇別氏族の興りは、北魏の太武帝が同族の源賀に源姓を名乗らせたことに影響された可能性がある。
 <更に、>北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F )

 そして、この遣隋使の持ち帰った情報も踏まえ、厩戸皇子は、周時代の邑制
https://kotobank.jp/word/%E9%82%91%E5%88%B6%E5%9B%BD%E5%AE%B6-144775
なる封建制もどき(点の支配+単層主従関係)ではなく封建制(面の支配+重層主従関係)・・結果的には欧州の封建制(feudalism)
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6-627435
とほぼ同じもので、三国時代の呉が補完的に実施していた世兵制・奉邑制(コラム#14056)・・を形成することを決め、また、再確認されたところの、法華経が慈悲行(人間主義的行動)を悟り(人間主義化)に至るための方法として推奨しているという前提の下、維摩経と勝鬘経が、それぞれ、男性の在家、女性の在家、が悟ることを説いていることから、三経義疏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F
を著し、将来、日本で生まれるであろう戦士やその母親、妻、に対し、在家のまま、慈悲行を行うように促した、とも。
 その上で、封建社会/戦士、を生み出すための構想の策定と、慈悲行の実践が戦士にとって日常的にはハードルが高いことから、日常的な方法をやはり仏教を手掛かりに探し出すこととし、この方針に基づき、その後の天皇家も、隋が唐に代わってからも遣隋使改め遣唐使の派遣を続けることにした、とも。
 しかし、その前に、天智政権の時、まだ何の準備も整っていなかった日本は唐と戦う羽目になり、白村江での惨敗を喫し、日本は事実上、一時的に唐による占領状態となったという説があるところ、いずれにせよ、新羅が唐に反旗を翻してくれたおかげで、日本はすぐに国家存亡の危機を回避することができた。(コラム#9255)
 なお、聖徳太子コンセンサスを裏付ける典拠は存在しないわけだが、そんな文書を事柄の性格上残すわけにはいかなかった、と、私は見ている。
 そもそも、当時の日本の政府内外には隋の潜在的なスパイがうようよしていたことを想起すべきだろう。↓

 「百済は帯方郡<(たいほうぐん)(注5)>故地に建国したと記録されているほど、帯方郡と縁が深く、4世紀に楽浪郡・帯方郡が高句麗の攻撃によって滅亡すると、多くの楽浪郡・帯方郡遺民が百済に帰化した。・・・

 (注5)「204年から313年の109年間、古代<支那>によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡である。楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県・・・)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ<支那>の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の<支那>文化の窓口としても重要な役割を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1

 372年に近肖古王は東晋から楽浪太守の爵号を受けており、この頃、多くの楽浪郡・帯方郡遺民が百済に吸収され、その一部は百済を経由して日本列島に向っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%88%88_(%E7%99%BE%E6%B8%88)
 「『日本書紀』の記録から注目されるのが現在「倭系百済官僚」と呼ばれる人々である。これはその名の通り、倭人であるが百済王権に仕えた人々を指す現代歴史学の用語である。5世紀後半において交易・外交・軍事などを契機として派遣された豪族らと現地女性との間に生まれた「韓子」「韓腹」と称される混血が多数存在し、倭から派遣された使者が長期的に任那・百済に居住した。その歴史的性格を巡っては未だ議論の最中にあるが、・・・倭系の氏(科野氏、物部氏、紀氏等)を持つ人物が百済の官職(徳率、奈率)を帯びていることによって判別される。『日本書紀』の編纂材料となっている百済系史料(百済三書)においては、親百済的であれば百済の官位を与えられ倭系百済官僚となり、反百済・親加耶的存在であれば、抵抗勢力として「任那日本府」として表現されたものと考えられられる。また、氏名に倭系の要素が含まれない人物や、百済の官職が明示されない者の中にも倭系百済官僚と見做せるものがおり、研究者の見解によって相違するものの十数名の倭系百済官僚を『日本書紀』から拾うことができる。古代史研究者の李在碩は、こういった倭系百済官僚の属性について、ヤマト朝廷における政治的地位を示すウジ・カバネを持ち、同時に百済の官職を保有することから、倭・百済双方の王権への両属性を持つことがその本質であったとしている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88#%E5%80%AD%E7%B3%BB%E7%99%BE%E6%B8%88%E5%AE%98%E5%83%9A
 
 (以下、紹介するところの、桓武天皇構想、と、杉山構想についても同様だ。同じく以下、紹介するところの島津斉彬コンセンサスは事実上公開されているが・・。
なお、どうして文書もないのに、聖徳太子コンセンサスや桓武天皇構想や杉山構想が長年月にわたって「規範性」を持ちえたか、については、日本には・・日本にも、と、言うべきだが、・・口伝の伝統があること(コラム#11554)を想起すべきだろう。
 杉山構想の場合は、この構想の策定からその概ねの完遂に至るまで、杉山元が、陸軍・・当時の日本の事実上の最高権力集団にして日本の知的上澄みの過半を擁していた集団・・、の事実上のトップであり続けたことから、彼以外のごく少数・・私は、杉山元(満洲事変時の次官。二・二六事件の時の参謀次長・・トップが宮様だったので事実上の参謀総長・・、日支戦争開戦時の陸相、対米英戦争開戦時の(名実ともの)参謀総長、同戦争中一時陸相)自身が、陸軍次官を辞任した時に、後任の次官が次々にその後任にだけ同構想を伝達するようにしたと想像しており、(終戦直前の首相)小磯国昭、(南京事件惹起者?の)柳川平助、橋本虎之助(自主退役)、古荘幹郎(病死)、(終戦時の参謀総長)梅津美治郎、(開戦時の首相兼陸相)東條英機、山脇正隆(注6)、(終戦時の陸相)阿南惟幾、(開戦時の次官の)木村兵太郎、富永恭次、柴山兼四郎、(終戦時の)若松只一、という歴代陸軍次官経験者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
10名のほかは、貞明皇后、西園寺公望、牧野伸顕、の3名だけが同構想を知らされていて、それで足りた、と、現在では考えるに至っている。)

 (注6)前任の東條とは違って理由もなく、わずか10ケ月で、しかも、広島幼年学校時代からの同期の阿南を後任として次官を辞した(上掲)のは、杉山構想の遂行継続に反対したからではなかろうか。
 後に陸軍大将に昇任(最後の陸軍大将)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%84%87%E6%AD%A3%E9%9A%86
https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%9F%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%B0%86%E5%B1%B1%E8%84%87%E6%AD%A3%E9%9A%86-%E6%98%8E%E7%A5%9E-%E6%85%B6%E6%98%8C/dp/4947727799

 なお、オリジナルの杉山構想に含まれていなかったと私が見ているところの、支那での帝国陸軍の提携相手が中国共産党となったこと、を知らされていたのは、杉山元本人を除けば、貞明皇后、西園寺公望、牧野伸顕、の他は、杉山が北支那軍司令官を務めた時に、隷下で、中共の「首都」延安が位置した陝西省の隣接省である山西省をも担当していた第1軍、の司令官を務めたところの元次官の梅津美治郎、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
くらいで、梅津以外で、山西省の少なくとも一部を管轄とした帝国陸軍部隊の諸司令官等には、単に、共産党軍は適当にあしらえ、深追いはするな、程度のことしか申し次ぎはなされなかったであろう、と、私は見ている。

  ウ 桓武天皇構想

 さて、天智朝に取って代わった天武朝は、聖徳太子コンセンサスに反し、唐を理想視し、唐の諸制度を日本に直接導入しようとした。
 (朝鮮半島において、(地名まで支那風に全とっかえする形で)大真面目に本当に唐の諸制度を導入し、(その後も日本では形の上はともかく実質的な導入がなされないままに終わったのに対し、)そのまま、20世紀の日韓併合に至るまで支那の歴代諸王朝を宗主国として崇める国家運営が行われ続けてしまう原因を作ったのが新羅だ。
 これは、プロト日本文明的文明から漢人文明へという、世界史的に見ても空前絶後の自発的な文明の切り替えであったのであり、それを、新羅に続く高麗も、更に続く(李氏)朝鮮も踏襲してきた結果が、現在の北半分の金家独裁王朝であり南半分の反日カルト国だ。
 他方、支那では、中共が、建国前から日本文明の日本を模範としてきたところ、建国後は、とりわけ鄧小平が最高権力者になってからは、日本から積極的に学ぶ戦略をとってきており、習近平が最高権力者になってからは、更にその一歩を進めて、私の言うところの、日本文明総体継受戦略を推進すると共に日本を再軍備させるための反日政策をとるという、日本から見てマッチポンプ的対応を行なってきている。
 この天武朝を巧妙に打倒して天智朝を復活させた光仁天皇の譲位によりその跡を継いだ桓武天皇だったが、彼は、「大意<が、>天皇(具体的には光仁天皇)が天日嗣高座の業を天智天皇の初め定める法に従って受けよと自分に命じた。自分は恐れて進むも退くもできなくなったが、天皇の命なので即位する」との、天智朝復活宣言めいた即位詔を発して即位し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%94%B9%E5%B8%B8%E5%85%B8
藤原氏と連携しつつ、桓武天皇構想を定め、武家創造/日本封建社会化プロジェクトを開始する。
(ちなみに、『竹取物語』は、醍醐天皇あたりが、紀貫之に命じて書かせた桓武天皇構想の情宣物語である、というのが私の説だ。
 私にそのことを気付かせたきっかけは、月(騎馬遊牧民国)からの軍隊が地球上でも五尺(1.5m)の所に全員浮いていた(騎乗していた)ことだ(コラム#13549)。
 ついでに言えば、かぐや姫は、月から送られたハニートラップ手法を駆使する工作員、軍隊は、この工作員回収部隊、といったところか。)
 この構想は、藤原氏から武家創始→桓武平氏から武家幹部家創始→清和源氏から武家棟梁候補家創始、の順序で実施に移され、それに概ね成功した証が、1019年の刀伊の入寇の撃退であり、それの完遂の証が、1185年の鎌倉幕府の成立、1221年の承久の乱によるところの、武家への権力移譲を経ての、1274、1281年の元寇撃退だ。(コラム#11375)
 また、慈悲行以外の毀損縄文性修復手段として、平安時代には、(紀貫之が担当した)和歌の奨励、(紫式部が担当した)源氏物語の執筆・回覧、が行われ、鎌倉時代初期に至って栄西が支那の臨済宗を参考にしつつ習合臨済宗(注7)(コラム#10123)を立ち上げると共に日本での飲茶を、私見では一種の格物的公案として、支那から持ち込んだ茶の種と茶の栽培知識と茶礼(されい)でもって再興したこと、を淵源として、室町時代に、習合臨済宗の寺が推進母体となって、(私見では住空間に神社/里山環境を取り込み、玄関なる結界を持つ(コラム#14339)ところの、)書院造文化、が、武家を中心に確立され、住空間が毀損縄文性修復の主要な場となった。(コラム#11375)

 (注7)栄西が鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て初めて京都に創建した建仁寺が天台・真言・禅宗の3宗並立だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%BB%81%E5%AF%BA
ことがその象徴だ。
 天台僧であった栄西は、二度南宋に渡っているが、私は、遣唐使の成果たる真言宗と天台宗に飽き足らなかった武家達の総意を背景として、その南宋渡航費用を、(天台密教を掘り下げるのが目的であったと目される)1回目(1168年)は平清盛(1118~1181年)が、(インド渡航を果たせず止む無く臨済禅を持ち帰った)2回目(1187~1191年)は(彼が源頼朝の一周忌に導師をを勤めていること等
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura137/jyufukuji-eisai2.html
から、)源頼朝が、支援したのではないかと見ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E8%8F%B4%E6%A0%84%E8%A5%BF ←渡航年、目的
 栄西が日本で飲茶を復活させた(上掲)ところにも、彼が、臨済禅を含む支那の禅に飽き足らない思いがあった・・支那的座禅や公案それ自体は非生産的である、と気付いていた・・ことを示しているのであって、武士の毀損された縄文性恢復方法論確立に向けての先達たる空海の真言宗と最澄の天台宗へのオマージュと自分の臨済宗への忸怩たる思いから、彼は、日本で、天台・真言・禅宗が習合した新宗派を興した、と、私は見ている。
 あえて、栄西の心中を推し量れば、慈悲行を謳う法華経を軸に仏教を総合的に広く学ぶことを奨励した日本の天台宗、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
(人は生来的に悟っている・・縄文人である・・とする)即身成仏を謳い神仏習合/山岳信仰を奨励した真言宗、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0
悟り(縄文化)を「感覚的、身体的体験で伝承<し>てい<こうとする>」点だけは彼が評価した禅宗、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97 
といったところか。
 松平家/徳川家の宗旨は浄土宗であるところ、徳川家康が重用した天海は天台宗の僧、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
同じく、以心崇伝は臨済宗の僧、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E5%BF%83%E5%B4%87%E4%BC%9D
で、家康の墓は((神道)久能山東照宮、(神道)日光東照宮、(浄土宗)大樹寺、のほか、家光により、秀忠と共に)真言宗の高野山にもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
ことが象徴的だ。

(続く)

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太田述正コラム#14361(2024.7.27)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その41)>

→非公開