太田述正コラム#14190(2024.5.3)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その7)>(2024.7.29公開)
「・・・<1553>年、我が後奈良天皇<(注10)>の御代で、将軍義輝の時代、支那の、世宗嘉靖32年に、村上一族の倭寇と、支那の王直<(注11)>が聯合して、大明を遠征したときは、・・・倭寇達は、船艦数百艘を整へ、一万餘人の人員がそれに分乗して、大明に殺到したのであつた。・・・
(注10)1496~1557年(天皇:1526~1557年)。「戦乱がつづいて国はみだれ,皇室財政も逼迫(ひっぱく)していたので,即位式は践祚(せんそ)の10年後におこなわれた。・・・
同天皇の事蹟(じせき)で著聞するものに宸筆般若心経(はんにゃしんぎょう)があり、その一は大覚寺心経殿に存するもの、その二は醍醐寺(だいごじ)に存するもの、その三は国々の一宮(いちのみや)に納められたもので、いずれも天文(てんぶん)年間(1532~55)に属し、国民の疫病(えきびょう)、飢饉(ききん)、洪水、兵乱などに苦しむを救わんための志に発するものである。・・・
将軍が京都を逃脱し地方へ流竄するなかで天皇は戦国大名に官位を叙任し,長尾・上杉氏らには私敵追討綸旨を発給するなど,独自の天皇権威の振興を図り,これは安土桃山時代の「王朝回復」の先駆けをなした。したがって単にこの時期を朝廷権力の衰退一辺倒とみるのは誤りである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87-65657
(注11)?~1560年。「度重なる明の海禁政策を逃れ、1540年に日本の五島に来住し、松浦隆信に招かれて1542年に平戸に移った。・・・明の嘉靖32年(1553年)5月に37隻を率いて太倉・江陰・乍浦等を寇し、同年8月に金山衛・崇明に侵入した。・・・
王直は上疏(じょうそ)して自らはもはや倭寇ではないので恩赦を得たいと訴え、海禁解除を主張し、自らの管理下での貿易を願い出た。しかし明朝の倭寇の鎮圧は本格的に開始され、1557年、王直は官位をちらつかせた明の誘降に乗って舟山列島の港へ入港した。明朝では王直の処遇について意見が対立していたが、1559年12月に王直は捕えられて処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%9B%B4
1556年に・・・嘉興の戦線に於ては、明将、総督兵部尚書張継の大軍と交戦して、我軍の損害は、1900餘人に及んだ。・・・
この時本隊と離れた別働隊は、岸に登つて、船を焼いて、帰国の念を断ち、西上して蕪湖に進み、南京城を攻め、明人を殺傷すること4000人であつたと言はれてゐるが、この時の別働隊は、僅か70名であつたのである。・・・
⇒それこそ、松原の筆致は白髪三千畳チックですが、それはさておき、松浦氏と支那系「倭寇」との関係は、16世紀央に遡る、というわけですね。
また、秀吉の朝鮮出兵は、日支「合作」の後期倭寇を通じて得られたところの、明の国情や軍事力についての豊かな情報を踏まえて決行されたものであることが分かろうというものです。(太田)
戦国時代は、言ふまでもなく、我国民が実力を以て世に出る時代であつて、古来からの、名族はもとより、匹夫まで、偉大な野心をもつて、天下を争つた時代である。
幾多の覇気に富める英雄が雲の如く輩出して天下を争つたのは、この時が一ばん華々しい。
また、国内の争乱を、小さい事となして、倭寇の一隊が大挙して、朝鮮、支那に遠征したのもこの時代が一ばん盛んであつた。
国民の中には、熱々たる覇気が醸成されてゐて、その吐け口を何処かに求めてゐたのである。
この勃々たる民衆的な気持を、一ばん多分に自分の中にもつてゐた秀吉は、到底、日本の政権を握つただけでは満足出来ないものがあつた。
そして、その吐け口を見出したのが、大明遠征であつた。」(57、69)
⇒おー、戦後の日本に遍在するぶつ切り出たとこ勝負史観の戦前版のおでましですね。
機運が満ち満ちて・・山本七平の言う空気が・・歴史を動かした、というわけです。(太田)
(続く)