太田述正コラム#14192(2024.5.4)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その8)>(2024.7.30公開)
「・・・天正の初め、呂宋に渡って、マニラに住し、西班牙語を学んで、向ふの事情を知ってゐた、原田孫七郎<(注12)(コラム#12245)>の、南洋攻略進言は、秀吉の心を動かしたのであつた。・・・
(注12)?~年?。「「ガスパル」の洗礼名を持ちガスパル原田とも呼ばれる。・・・ 1591年豊臣秀吉の使者として、スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに出向き交渉した。
また、文禄3年(1593年)、現在の台湾にあるとされた「高山国」に秀吉の命で朝貢を促す文書(豐臣秀吉高山國招諭文書)を届けようとしたが、高山国が存在しない国家だったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%AD%AB%E4%B8%83%E9%83%8E
⇒「南洋攻略進言」がなされたことの確認がとれませんでした。(太田)
我国の徳川時代に於て、蝦夷に最初の注意を向けた人は、岡山藩の池田新太郎少将光政に仕へてゐた、儒者の熊沢蕃山である。
それから、池田光政と、交遊最も深く「大日本史」の編纂を計劃した、水戸藩の徳川光圀であつた。
熊沢蕃山は、「北狄論」を書い<た。>・・・
⇒蕃山による「北狄論」執筆の確認がとれませんでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1
https://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E8%95%83%E5%B1%B1-16500
https://www.philosophyguides.org/data/banzan-complete-works/ (太田)
次に蝦夷に目をつけたのは、将軍家宣に重用せられて、諸般の政治に敏腕を振つた、新井白石である。・・・
しかし、白石は、・・・「蝦夷は、山島により国を成し、渓谷多く、時に禽鹿径を通ずるのみ、復員広狭の如き得て詳かにすべからず」と言ひ捨てたのであつた。
⇒このくだりについても、確認がとれませんでした。(太田)
その後に於て、「大日本輿地理志」の著者である並河五一郎<(注13)>が、ロシヤの警戒すべきことをのべて、蝦夷開拓を幕府に上書した。
(注13)並河誠所(せいしょ。1668~1738年)。「儒学者・地理学者。・・・実地調査に6年間を費やして、畿内五カ国の地誌『五畿内志』を編纂した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A6%E6%B2%B3%E8%AA%A0%E6%89%80
⇒この上書なるものの確認もとれませんでした。(太田)
その後に於ては「蘭学事始」の著者、杉田玄白が、ロシヤのことを憂ひた意見をのべ、また長崎の通詞で「魯使北京紀行」の著者である吉雄耕牛<(注14)>が、ロシヤの南下の警戒すべきことを唱へたのであつたが、まとまつた見解として、蝦夷の開拓と国防問題の両方から、北方を取(とり)あげた先覚は、仙台の医者である工藤平助であつた。・・・」(72、74、132)
(注14)1724~1800年。「オランダ語通詞(幕府公式通訳)、蘭方医。・・・
長崎<の>・・・吉雄邸を訪れ、あるいは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽・野呂元丈・大槻玄沢・三浦梅園・平賀源内・林子平・司馬江漢・合田求吾・永富独嘯庵・亀井南冥など当時一流の蘭学者は軒並み耕牛と交わり、多くの知識を学んでいる。大槻玄沢によれば門人は600余を数えたという。中でも前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に耕牛は序文を寄せ、両者の功労を賞賛している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%9B%84%E8%80%95%E7%89%9B
「1795年「魯使北京紀行」を翻訳。(これは医学書ではない)」
https://www5.big.or.jp/~n-gakkai/katsudou/reikai/200005_01.html
⇒耕牛が唱えた云々についてもまた、確認がとれませんでした。
いずれにせよ、江戸時代を通じて、私の言うところの、後の横井小楠コンセンサス形成に至る地下伏流は滔々と流れ続けていた、と、改めて感じさせられます。(太田)
(続く)