太田述正コラム#14194(2024.5.5)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その9)>(2024.7.31公開)

 「・・・天明年間「赤蝦夷風説考」<(注15)>を書いて、時の老中田沼意次の処に上書したのであつた。・・・

 (注15)「エカテリーナ2世の治世には、・・・ロシア船は択捉島・国後島、さらに厚岸にまで交易を求め来航するようになる(詳細は千島国も参照)。ロシア人たちは、北千島(占守郡および新知郡)のアイヌに対して毛皮などに重税を課した。すでに日本の活発な経済活動に苦慮していたアイヌは、一部がこの新たな負担に耐え切れずに南下し、松前藩などに逃げ込み、ロシア人の活動状況を報告した。
 一方、日本側ではアイヌとの交易権を独占していた松前藩が、既得権益確保のため、蝦夷地以北へ和人が入地することを制限していたため、蝦夷地に関する調査・研究が遅れていた。
 このような状況の下、はんべんごろうが日本に来航、彼は寄港地で数通の書簡を残し、その中でロシアの日本侵略の意図を述べ蝦夷地蚕食の危険を警告したのが本著のきっかけとなった。 仙台藩の藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞吉雄耕牛・蘭学者前野良沢らと親交を持ち、北方海防の重要性を世に問うべく、本書を上梓した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E8%80%83
 はんべんごろう=モーリツ・ベニョヴスキー(Móric Benyovszky、Maurycy Beniowski。1746~1786年)。「生まれはハンガリー(現在のスロバキア領ヴェルボ)<。>・・・ポーランド人の対ロシア抵抗組織「バール連盟」に加わったベニョヴスキーはロシアの捕虜となり、脱走の試みが失敗したのちカムチャツカ半島へと流刑された。そこで他の捕虜と共に反乱を起こして現地の司令官ニーロフを殺害、停泊中のコルベットを奪取して「聖ピョートル号」と名づけ、1771年5月にカムチャツカを脱出した。
 南下して千島列島の新知島に立ち寄り、5月29日から6月9日まで滞在した。カムチャツカに戻ろうと企てたロシア人船員ゲラシム・イズマイロフらを食糧と共に置き去ったため、食糧が残り少なくなり、日本に進路を向けることを決定する。
 7月8日、阿波国徳島藩の日和佐(現徳島県美波町)に来航する。徳島藩は幕府の咎めを恐れて上陸を許さなかったが、水と食料を提供した。
 阿波を後にして土佐国高知藩の佐喜浜(現高知県室戸市)に向かったが、上陸はできなかった。このため長崎を目指したが、方向を見失って奄美大島に流れ着き上陸する。この地で長崎のオランダ商館長宛の書簡を送った・・・。台湾島に寄港したが現地人との間で戦闘となり、次の寄港地マカオに向かった。
 奄美大島で発した書簡は神聖ローマ帝国陸軍中佐名義で高地ドイツ語で書かれていた。長崎オランダ商館長ダニエル・アーメナウルトが幕府より解読を依頼されたが、その内容はルス国(ロシア帝国)が松前近辺を占拠するためにクリル諸島に要塞を築いているという内容を含んでいた。ベニョヴスキーをオランダ語読みした「ファン・ベンゴロ」は日本で「はんべんごろう」と呼ばれることになり、幕府は書簡の存在を秘匿したものの、工藤平助・林子平らがロシア関連書籍を刊行して世に警鐘を鳴らすきっかけとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 田沼の用人三浦庄二から取あげられた平助の上書は、早速、勘定奉行松本伊豆守秀持<(注16)>によつて吟味されることになり、・・・1785<年>・・・に至つて、幕府から、調査隊が派遣されることになつた・・・。・・・

 (注16)1730~1797年。「田沼意次に才を認められ、天守番より勘定方に抜擢され、・・・勘定組頭となり、のちに勘定吟味役となり、・・・1779年・・・勘定奉行に就任して500石の知行を受けた。・・・1782年・・・より田安家家老を兼帯した。下総国の印旛沼および手賀沼干拓などの事業や天明期の経済政策を行った。
 田沼意次に仙台藩医工藤平助の『赤蝦夷風説考』を添えて蝦夷地調査について上申した。田沼は工藤の献策を受け入れて彼に蝦夷地の調査を命じた。秀持は『東遊記』の著者である平秩東作よりアイヌの人びとの風俗や蝦夷地の産物等について情報を得て、1784年10月、蝦夷地実地踏査に踏み切り、2度の調査隊を派遣した。調査隊には最上徳内が含まれていた。
 そして、蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、・・・1786年・・・の田沼意次の失脚により頓挫してしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E7%A7%80%E6%8C%81

 <派遣隊は>翌年に帰つてきて、・・・報告し・・・従来わが国の所領であつたカムサツカが、ヲロシヤ人に奪はれて、彼は愈々南下して、内地に近き島嶼を占領し、更にウルツプ島近くで恣に漁猟をやつてゐる。
 いまにして之が対策をしなければ、その患は測り知れないものがあるといふのであつた。・・・
 丁度そのころ、秋田藩の・・・佐藤信季<(注17)>が天明元年に、蝦夷に旅行して根室まで赴き、ヲロシヤ人が、恣に土人の土産を掠奪するのを目撃して、天明2年帰郷すると、当時の秋田藩主、佐竹義和に、国内の弊政を改革し、蝦夷を開拓すべき建白書を提出した。しかし、これは藩吏の忌むところとなつて、鎖国に反する上書は捨ておき難しと、捕吏に追はれ、8月15日、秋田を脱走した。」(133、135~136)

 (注17)1724~1784年。「農政学者、・・・農学者佐藤信景の子で、子に信淵がいる。・・・蝦夷地や東北、関東の各地を歴訪、見聞を広めるが下野国足尾で客死<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E5%AD%A3

⇒松原は、信季とその父の佐藤信景(注18)とを取り違えていますが、信景の当該事績・・但し、逐われたのは秋田藩ではなく松前藩・・そのものがウソだったようです。

 (注18)1674~732年。「,出羽国雄勝郡西馬昔内村(秋田県羽後町)に生まれ,医業とともに農学を家学として継承。1697・・・年,門人と蝦夷地に入り,釧路奥阿寒山麓に地を相して稲作の経験を積むこと3年,成果を『開国新書』として松前藩に提出した。藩は禁令なりとして退去を命じた。これは孫信淵が『土性弁』(信景著,信淵補)にいうところで,久しく真実とされてきた。だが現地に何らの証跡もなく,彼が肥培の法を強調せんがため仮に事に託したものと思われる。にもかかわらず佐藤家5代の伝統に支えられて,多くの人々をして北地開拓の希望をふるい立たせたことは見逃しえない。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%99%AF-1078773

 佐藤信景とベニョヴスキーとは、いずれ劣らぬ大ぼら吹きですね。(太田)

(続く)