太田述正コラム#14200(2024.5.8)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その12)>(2024.8.3公開)

 「・・・<ところが、>幕府<は、>・・・戦争の準備もせず、和親の準備もせず、時勢は刻々に迫つてきつゝあるのであつた。・・・
 憂国の士が之を見て、痛憤に堪へず、献策しはじめた・・・。・・・
 それは天保年間、最も甚だしかつたのであるが、まづその一人に、海軍の建設を唱へた松本胤親<(注25)>(たねちか)がある。・・・

 (注25)松本斗機蔵(?~1841年)。「八王子千人同心組頭。塩野適斎にまなぶ。蘭学に通じ,渡辺崋山と親交があった。水戸藩主徳川斉昭に「献芹(けんきん)微衷」を献じ,また「英国使節渡来風説に付上書」をあらわすなど海防問題にくわしかった。天保(てんぽう)12年9月12日浦賀奉行就任を前に病死。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%96%97%E6%A9%9F%E8%94%B5-1111404

 また、嘉永2年に於ては、仙台の蘭学者、大槻玄沢の子大槻磐渓<(注26)>(ばんけい)が、防海の意見を吐いた。・・・

 (注26)1801~1878年。「仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。父は蘭学者の大槻玄沢。子に・・・大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E7%A3%90%E6%B8%93

 彼が、・・・軍艦建造に当つて、小艦主義を唱へ、又、対抗政策を以て、一方と親交し、一方の外国の勢力を抑へる・・・現実的な・・・策を提唱したことは、・・・特筆しておいてもよい。・・・
 杉田玄白が、ロシヤと和親すべきことをのべたことがあつたが、大槻磐渓も、イギリスに対抗するためには、ロシヤと和親した方が得策であると考へたのである。・・・
 佐久間象山・・・は、松代藩士で、藩主真田幸貫が、当時、老中にゐて海防係であつたので、・・・1842<年>・・・に、・・・松平定信の子<の、この>・・・幸貫に向つて建白書を提出した・・・。・・・
 象山は・・・、当時の海外の形勢に対して、心憂すること深く、それに対処すべく泰西文明の吸収を心がけ、必要に応じて、その兵法、砲術、法制は改革していくべきことをのべた進取の人であつた。・・・
 更に彼は、・・・軍備には、相当の経済が必要であるけれども、最初に費しておくは、後に費すこと少きためであることを論じ、戦争に及べば、実に莫大の費用が要るから、戦はずして敵を畏怖せしめるために軍備が必要であると主張し<た。>・・・

⇒象山自身が分葬されている佐久間家累代の菩提寺から、象山が日蓮宗信徒であったことが分かります。
http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-matsushiro.html (太田)

 そこへ、我国には、天保3<(1833)>年より、大飢饉が襲来し<、>・・・ついに、・・・大阪に於て大塩平八郎が、貧民救済を名として乱を図るに至つたのであつた。
 また柏崎に於ても、平田篤胤の塾頭であった国学者生田万<(注27)>が兵をあげて窮民救済に乗出すに至つた。」(169、173、176、183、187)

 (注27)いくたよろず(1801~1837年)。「上野国館林藩の藩士の家に生まれる。・・・
 藩校で儒学を学び、・・・数え24歳のとき、江戸で平田篤胤に入門して国学を学んだ。・・・碧川好尚(篤胤養子平田銕胤の弟)とならぶ篤胤の二大高弟の一人として平田塾(気吹舎)の塾頭を務め<た。>・・・
 文政11年(1828年)、藩主に提出した『岩にむす苔』は土着農耕論というべき藩政改革の書であったが、これにより、藩より追放処分を受けた。天保2年(1831年)、父の死によって帰国を赦免されたが、あえて家督を弟に譲り、上野国太田で私塾厚載館を開いて子弟の教育にあたり、・・・天保7年(1836年)に越後国柏崎へ移り、桜園塾を開き、国学を講じた。越後では貧民に食糧を与えるなどして人望を集めた。・・・
 <天保8年(1837年)、>大塩の乱・・・は、大砲を以て大坂市中を焼いたこと、下級幕吏と百姓の連合軍だったこと、銃撃戦が展開されたこと、檄文による政治思想の表明、一部被差別民の参加、武士出身の学者が首謀者であったことなど、従来の一揆とは異なる諸要素を含んでおり、それゆえ、従来以上の衝撃を日本全国にあたえた。・・・影響を受けた生田もまた、飢饉で苦しむ民衆を座視できず、同年6月に数名の同志を集めて「奉天命誅国賊」の旗を掲げて蜂起、米の津出(つだし)を図る桑名藩の陣屋を同志とともに襲撃した(生田万の乱)。平田の門人ながら、蜂起の際には「大塩門人」を称し、大塩党であることを表明した。乱は不成功に終わり、負傷して自刃した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E4%B8%87
 「乱の翌日より、米価は値下がりしたといわれている。・・・同様の事件に、同じ天保8年に摂津国能勢で起こった能勢騒動がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E4%B8%87%E3%81%AE%E4%B9%B1
 「山田屋大助<(1790~1837年)は、>・・・摂津能勢郡山田村の出身の人物。のち大坂に移り、西横堀斉藤町(現:大阪市西区)で薬種商を営む傍ら武術を教える。・・・
 ・・・大塩平八郎の乱に影響を受け、・・・能勢郡今西村(現:大阪府豊能郡能勢町今西)で、同志数人と共に米穀の均分支給と徳政令の発布を求めて一揆におよんだ(能勢一揆、能勢騒動)。集まった農民は1000人以上にもおよんだ。
 一揆勢は当初京を目指したが、幕府側により察知されたため中山峠から杉生、上左曽利を経由し西に向かった。3日目には、左曽利村から木器村(現:兵庫県三田市木器)にいたり、興福寺に逃げ込んだ。三田藩の砲撃により同志が次々と倒れる中、大助は自ら割腹し自害する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%A4%A7%E5%8A%A9

⇒陽明学者として知られている大塩平八郎ですが、今川氏の末流とされ、大塩家累代の菩提寺から彼もまた日蓮宗信徒であったことが分かります。
 なお、大塩の代表作の『洗心洞箚記』を、禁書とされたにもかかわらず、吉田松陰、西郷隆盛が読んでいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

(続く)