太田述正コラム#14202(2024.5.9)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その13)>(2024.8.4公開)

 「我国に兵学の教授が行はれはじめたのは、ずつと昔で、「日本紀」を見ると、持統天皇の7年に、・・・読み下し<にするが、>「( 十二月)丙辰朔丙子、陣法博士等を遣して、諸国に教へ習 はしむ」・・・とある。<(注28)>

 (注28)「陣法という語は《日本書紀》の天武紀12年11月丁亥条に諸国に陣法を習わしめた記事があるのをはじめ,奈良時代,平安時代初期には陣法教習の事実がある。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%A3%E6%B3%95-538970

⇒「持統天皇の7年」も正しいのかもしれませんが、挙げるのなら、最初の「天武天皇の12年」でしょう。(太田)

 ずつと我国の兵学は、支那から伝はつてきたもので、大江匡房<(注29)>が伝へた八陣なども、支那の兵法である。

 (注29)1041~1111年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E6%88%BF

⇒大江維時(注30)の間違いです。(太田)

 (注30)これとき(888~63年)。「大江匡房<は、>・・・維時の子孫である。・・・唐に留学して[『六韜』『三略』および『軍勝図』(諸葛亮の八陣図)]を学び、それを『訓閲集』という120巻の書物に記している。また、日本最古の兵書といわれる『闘戦経』の作者に比定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E7%B6%AD%E6%99%82
 「大江維時<は、>・・・これらの兵書を「人の耳目(じもく)を惑わすもの」とし、大江家にのみ伝え、他家に秘して、しばらくの間は広まらなかったとされる(大江家が兵書を伝えたのは、古代では天皇の勅命でやむをえずの場合)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%9F%9C ([]内も)

 八陣<(注31)>とは、魚鱗、鶴翼、雁行、彎月( 或は偃月ともいふ)鋒矢、衡軛、長蛇、方円の 八つの 戦法のことである。

 (注31)「日本では<支那>の八陣図が古くから知られ、平安時代に大江維時により魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円という和名が作られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%BD%A2

⇒陣形で思い出されるのは、「アリストテレス『政治学』に・・・、当初は騎兵が軍事力において卓越していたので国制は貴族制であったが、その後、重装歩兵が国家の戦力の中心になると民主政となったと<あ>る」(上掲)ことです。(太田)

 また、孫子の九地といふのが我国に伝はつてきた。
 九地とは、敬地、軽地、争地、交地、衢地、重地、圯地、囲地、死地のことである。
 支那の兵学でも我国に伝はつたのは、孫呉の二書、太公望の六韜<(注32)>、黄石公<(注33)>の三略<(注34)>である。 」(206)

(注32)りくとう。「「韜」は剣や弓などを入れる袋の意味である。一巻に「文韜」「武韜」、二巻に「龍韜」「虎韜」、三巻に「豹韜」「犬韜」の60編から成り、全編が太公望呂尚が周の文王・武王に兵学を指南する設定で構成されている。中でも「虎の巻(虎韜)」は、兵法の極意として慣用句にもなっている。・・・
 『孫子』では寡戦(小勢で大勢と戦うこと)を説かないが、『六韜』では寡戦を説く部分が見られ、これが戦闘姿勢に対する違いといえる。
 『六韜』「立将篇」では、君主が戦争の全権を将に移譲する儀礼を行い、口出しさせない誓いを立たせているが、このスタイルはクラウゼヴィッツの『戦争論』と対比される。『戦争論』では、戦争は政治の一手段であり、軍はあくまで政治家の管轄下(シビリアンコントロール)とされる。『孫子』を初めとする<支那>兵法において、君主が軍事行動に口を出さない思想があったのは、古代<支那>において、政治家と軍人が未分離の状態であったためとされ、将軍が政治にも精通していたためとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%9F%9C 前掲
 (注33)こうせきこう(?~?年)。「秦代の隠士。張良に兵書を与えたという伝説で名高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E7%9F%B3%E5%85%AC
 (注34)「太公望が書き、神仙の黄石公が選録したとされる。・・・成句「柔能く剛を制す」の出典である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%A5

⇒ここで登場した支那の諸兵書が、(文字通り「人の耳目を惑わすもの」であったところの、『軍勝図』、を除き、全て)私の言う中原(夏華)文明の産物であって、漢人文明が兵学を発展させることができなかった理由は、後者の軍事軽視にあるわけです。(太田)

(続く)