太田述正コラム#14208(2024.5.12)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その16)>(2024.8.7公開)


[佐々木氏]

高島秋帆だけではなく、杉田玄白(や間宮林蔵)も、宇田源氏の佐々木氏であることを思い出した。(コラム#8066、11557)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%B0%8F
 「杉田家は近江源氏佐々木氏の支族で、萬石行定の子孫である真野氏の家系とされる(間宮氏も同祖とされる)。戦国時代、武蔵国久良岐郡杉田村(現在の横浜市磯子区杉田)の住人であった真野新左衛門信安は、間宮信高(間宮康俊の四男)に属して水軍の将として武功をあらわし、間宮の名字を許された。間宮(真野)信安の子の主水次郎長安は、北条家滅亡後に杉田村に蟄居し、名字を杉田に改めたという。その後長安は、娘婿の五兵衛忠元とともに、橘樹郡菅生(現在の川崎市宮前区菅生)に移って帰農した。忠元の子・杉田八左衛門忠安は、父の実家が間宮家に仕えていた縁で藤井松平家に推挙され、300石取りの物頭を務めたという。武家としての杉田家は忠安の長男が継ぐが、忠安の二男が医家杉田家の始祖となる初代杉田甫仙であり、玄白の祖父である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E7%8E%84%E7%99%BD
 「間宮林蔵<(1780~1844年)は、>・・・常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市の一部)の小貝川のほとりに、農民の子として誕生。戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏分流間宮氏の篠箇城主の間宮康俊の子孫で間宮清右衛門系統の末裔。
 当時幕府は利根川東遷事業を行っており、林蔵の生まれた近くで堰(関東三大堰のひとつ、岡堰)の普請を行っていた。この作業に加わった林蔵は幕臣・村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5
 

⇒佐々木氏には、理系でノンポリの優秀な血が流れている感がある。(太田)

 「・・・<江川>坦庵が、当時交遊した主な人々をあげると、国防論者では、佐藤信淵、尚歯会の渡辺崋山、高野長英があり、幕府の旗本では、下曾根金三郎、羽倉簡堂、川路左衛門大、堀織部正があり、水戸の藤田東湖及び藩主斉昭侯があろ、薩藩の島津斉彬侯、平戸の松浦静山侯、田原の三宅友信<(注43)>侯などがあ<っ>・・・た。」(223)

 (注43)1807~1886年。「三河田原藩の隠居格、蘭学者。・・・文政<7>年(182<4>年)・・・頃から<藩士の>渡辺崋山の影響を受けて蘭学の研究を行うようになった。文政10年(1827年)に兄の藩主康明が28歳で病死すると後継問題が発生し、その結果三宅家の血統を受け継ぐ友信ではなく、姫路藩酒井家から持参金つき養子として入ってきた康直が藩主となった。友信は前藩主扱いの隠居格とされ、隠居料2000俵余を与えられて巣鴨の下屋敷に住居し、「巣鴨様」と呼ばれるようになった。23歳の若さで隠居となった友信は酒色に溺れることもあったが、側用人となった崋山の勧めにより一層蘭学研究に打ち込み、隠居料の多くを蘭書の購入に費やした。長崎留学から戻ってきた鈴木春山のほか、高野長英、小関三英らを雇ってこれら蘭書の翻訳を行った。また、崋山が蘭書の購入を希望した際には友信が資金を提供することもあった。
 天保10年(1839年)に蛮社の獄が起こり、翌年1月に崋山が田原へ護送されると、友信も蘭学者の弾圧を避けるため、そして崋山の身辺を見守るために田原へ移った。・・・天保12年(1841年)に崋山が自刃すると非常に落胆し、弘化元年(1844年)12月に再び江戸へ戻った。師を失った友信はさらに蘭学に情熱を注ぎ、春山や村上範致、上田亮章を相手に西洋銃陣や砲術の導入に力を入れた。
 安政3年(1856年)、幕府が蕃書調所を設置すると、語学力を評価されて推薦を受けて入所し、兵書を翻訳して『泰西兵鑑初編』を出版している。慶応3年(1867年)、藩主となっていた長男の康保と共に田原へ帰国し、朝廷に帰順の意を示す。
 維新後は田原城内大手に住居して「大手様」と称された。晩年は東京へ出て自適の生活を送<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%8F%8B%E4%BF%A1

⇒江川坦庵の交遊相手の大名格3名中、島津斉彬と松浦静山は赤穂事件の時の吉良上野介側に立ったご先祖様を持つところ、明治維新当時の田原藩は、藩の規模こそ違え、薩摩藩同様、藩主ならぬ藩主格の人間が、それぞれの実子が藩主を務める藩を仕切っていた、というわけです。(太田)

(続く)