太田述正コラム#14210(2024.5.13)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その17)>(2024.8.8公開)
「・・・我国も昔は、士農一致であつたが、武士が職業化して徳川時代になると士農が分離してしまひ、僅かに、ある藩で土着制度が残つてゐたくらいである。
だが武士を養ふことが困難であるといふ経済上の理由と、武士の城下住ひは奢侈に流れて、柔弱になるといふ理由から、我国に於ては、荻生徂徠や、太宰春台や、林子平や、佐藤信淵などが土着性を唱へてきたが、まだ百姓に目をつけたものはなかつた。
⇒彼らは、要するに封建制に戻せ、と、主張しているわけであり、時代を勘案しても時代錯誤も甚だしいと言うべきでしょう。(太田)
<ところが、>兵制の変化は、個人的武勇の上に、団体訓練と、射撃を要求したので、百姓で充分間に合ふことになり、・・・同じ頃に・・・<江川>坦庵と・・・筒井政憲が農兵を主張し、それから明治維新 にかけて、 農兵を主張し、それから明治維新にかけて、農兵を主張するものは殖え、又実際に組織して効果をあげた人も少くなかつた。
⇒こちらの人々は、時代が経過したこともあり、欧米の徴兵制に影響を受けたのでしょうね。(太田)
久留米の真木和泉の兵農渾一策、平野国臣が生野に旗揚げした時の美玉三平<(注44)>の但馬の農兵、慶応元年の一橋家の農兵募集、足利藩の田崎草雲<(注45)>の誠心隊、長州の高杉晋作の奇兵隊などはそれである。
(注44)1822~1863年。「薩摩・・・藩士。尊攘運動にくわわり,寺田屋事件に連座して藩邸にとらわれたが脱出。但馬(兵庫県)の庄屋中島太郎兵衛らの農兵組織運動に協力し,平野国臣と生野に挙兵したが・・・敗死。42歳。本名は高橋親輔。」
https://kotobank.jp/word/%E7%BE%8E%E7%8E%89%E4%B8%89%E5%B9%B3-20391
(注45)1815~1898年。「<譜代の>足利藩<士の子。>・・・1835年 家督を継母の連れ子に譲るため、足利藩を脱藩。・・・185<6>年・・・江戸を去り足利へ帰郷。藩へ絵師として復帰する。1858年 尊王志士と交わり幕府の嫌疑を受ける。安政の大獄の難を遊歴をすることで避ける。1868年 藩主以下重臣に説き藩論を尊王に統一させる。藩内の百姓を徴兵した「誠心隊」差図役として足利山麗会議にも出席。藩の防衛に努めた。・・・1876年 第1回内国勧業博覧会へ画を出品し、高評を得る。・・・1890年・・・、帝室技芸員を拝命。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B4%8E%E8%8D%89%E9%9B%B2
また、江川坦庵は、幕府の命によつて、江戸湾防備のため、品川に砲台を築いた。
これはヘンケルベルツの築城術を学んで造られたもの・・・である。
また、幕府に於て函館に、築城の議があつたとき武田斐三郎<(注46)>を推薦して、我国に洋式の堅固な堡塁「五稜郭」を造らせたのも、坦庵であつた。」(224)
(注46)あやさぶろう(成章。1827~1880年)。「伊予大洲藩士<の子。>・・・先祖は甲斐武田氏<。>・・・大洲藩校・明倫堂に通い、母親の実家で漢方医学を学んでいたが、22歳のとき藩主・加藤泰幹に願い出て、大坂の緒方洪庵の適塾で学び(のちに塾頭となる)、2年後に洪庵の紹介で伊東玄朴や佐久間象山に兵学、砲学まで学んだ。ペリー来航のときは、象山に連れられて吉田松陰らとともに浦賀に行って黒船を見て『三浦見聞記』を著した(27歳)。その才能を認めた江戸幕府の命により旗本格として出仕。箕作阮甫に従い長崎にてロシアのエフィム・プチャーチンとの交渉に参加し、通詞御用を務めた(28歳)。・・・江戸に戻ると、幕府の命で箱館奉行・堀利煕らの蝦夷地・樺太巡察に随行、箱館で・・・マシュー・ペリーと会談した(28歳)。巡察中に箱館奉行所が設置されると箱館詰めとなり、10年間同地に滞在した。箱館では、機械・弾薬製造の任に就き、弁天台場や五稜郭の設計・建設に携わった。また、諸術調所が開設されると教授役となり、[江戸における官設学校は、幕士、藩士の区別が厳格で天下の人材を教育する道ではないと考え、寮中のものは身分の公私貴賎に拘わらずすべて学術の成績によって等級を分け、これを奨励した。]榎本武揚・前島密・井上勝などが学んだ。他にも溶鉱炉を作ったり(33歳)、生徒らを連れて国産帆船「亀田丸」を操船して日本一周をしたり(33歳)、ロシアの黒竜江に日本初の修学旅行を兼ねた貿易に出かけたこともある(35歳)。・・・やがて小栗忠順の洋式兵器国産化構想による抜擢により江戸へ戻り、江戸開成所教授や大砲製造所頭取に任じられ、友平栄などと大砲及び小銃の製造に携わり、また同時期に小栗の命により中小坂鉄山の実況見分に赴いている。・・・
明治維新後は新政府に出仕し、日本軍の近代兵制、装備、運用を含め、明治の科学技術方面の指導者となり、フランス軍事顧問団との厳しい折衝を経て、明治8年(1875年)に陸軍士官学校を開校させた。・・・
陸軍大佐。 陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。・・・
明治8年当時、陸軍は大将1人(西郷隆盛)、中将3人(山縣有朋、西郷従道、黒田清隆)、少将14人(大山巌など)、大佐12人のうち、ほとんどが薩摩・長州・土佐の出身であり、幕臣出身で科学・技術の知識を持つ者は斐三郎だけだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%96%90%E4%B8%89%E9%83%8E
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/04_ta/04-takedaaya.html ([]内)
伊予大洲藩主家の「加藤家には好学の気風があり、藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風とした。初期の大洲藩からは儒学者の中江藤樹が出ている。
大洲藩は勤王の気風が強く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していた。このため勤王藩として慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでも小藩ながら参陣し、活躍した。また、坂本龍馬が運用したことで知られる蒸気船いろは丸は大洲藩の所有であり、大洲藩より海援隊に貸与していたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%B2%E8%97%A9
⇒武田斐三郎の存在を知ったことが、私にとって、本シリーズにおける最高の収穫になりそうです。(太田)
(続く)