太田述正コラム#14212(2024.5.14)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その18)>(2024.8.9公開)

 「・・・当時、各地の藩に於ても、対外問題に目を向けてゐる藩に於ては、国防計劃 が採用された。
 その中でも、田原藩の三宅氏(渡辺崋山が家老であつた藩)に於ては、沿海数ケ所に遠見番所を設けて警戒し、信州の松代藩の真田氏(佐久間象山のゐた藩)に於ては、盛んに鉄砲を鋳て、海警を唱へたし、佐賀の鍋島氏、薩摩の島津氏など、国防に腐心をしたが、その中でも、一番熱心に、国防のことを論議したのは、水戸の徳川氏であつた。
 水戸藩に於ては、既に、義公(水戸光圀)の頃に、蝦夷問題に関心し、・・・1690<年>、北海道を探つたことや、寛政の初、水戸の儒者立原万が、一橋治保<(注47)>に向つて、ロシヤの南下を痛論したことは既にのべたが、・・・<その孫の>斉昭は、義公の遺志をついで、国防に最も心を注いだ人であつた。

 (注47)(水戸藩の第6代藩主の)徳川治保(はるもり)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D
の誤り。

 そして、この藩主の左右にゐて劃策した人々は水戸学の忠臣である藤田東湖や、会沢正志斎などであつた。・・・
 東湖の外国船に対する態度は、父幽谷の思想を受ついで、撃攘の一策である。・・・
<彼は、>蘭学者達が、まづ準備してから攘夷を行つてもおそくないと主張し、それが、各地の藩で支持される傾向を知つた時には、・・・憤懣をもらしてゐる。・・・
 当時、弘道館は、日本で最も元気溌剌とした正気のある学校として、青年の憧れの的となり、東北諸藩はもとより、西南諸藩からも、続々と留学生が派遣された。
 久留米の真木和泉、薩摩の藤井良節<(注48)>などはそれである。・・・

 (注48)1817~1876年。「[神職の家に生まれる。]薩摩・・・藩士。お由羅騒動で福岡藩にのがれる。文久2年ゆるされ,京都で弟の井上石見(いわみ)とともに岩倉具視ら討幕派の公家と藩との連絡にあたった。維新後は帰郷して神職となる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E4%BA%95%E8%89%AF%E7%AF%80-1105131
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%95%B7%E7%A7%8B ([]内)

⇒2人とも神職でもあったところ、真木和泉は後に長州藩の鉄砲玉としてその生涯を終えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E4%BF%9D%E8%87%A3
のに対し、藤井良節の方は出身藩の一役人としてその人生を全うしたのですから、藩風や藩主達の出来不出来がいかにその藩士を左右するかです。(太田)

 東湖や、会沢正志斎の思想を、代表して、之を幕閣に迫つたのは、剛毅な水戸斉昭であつた。・・・
 斉昭は、・・・1834<年>、東湖等と図つて、蝦夷開拓を建白してゐるが、・・・これは、国家の国防といふやうな意味ばかりでなく、義公の遺志をつぐことと、封土貧寒な水戸藩の延長を北に求める経済上の理由もあり、松前はもとより、西はカラフト、北は千島、カムサツカまで遠征して、水戸藩のものにし、自ら北門の警戒に任じようといふ遠大なもの<だ>・・・つたが、水野越前守は水戸藩の志を疑つて之を許さなかつた。・・・
 <ついには>1844<年>には、「水戸殿謀反」の嫌疑がかゝり、隠居を申しつけられた。・・・
しかし、嘉永年間・・・に至つて、幕政多事・・・黒船の来航・・・になるに及んで、斉昭は再び世に出て活躍し、東湖なども、「海岸防備係」を命じられた。・・・」(226、228、230、232~233、237)

⇒表見的には、斉昭も東湖も、いずれ劣らぬノータリンの跳ね上がりですが・・。(太田)

(続く)