太田述正コラム#14214(2024.5.15)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その19)>(2024.8.10公開)

 「・・・島津斉彬・・・からの献白<を受け、>遂に、・・・1853<年>の9月に至つて、徳川幕府が、祖宗の遺制となして、禁じてきた大船の建造を許すに至つたのであつた。・・・
 これによつて、・・・幕府に於ても、各藩に於ても大艦建造の熱が昂つてきたのである。・・・
 幕府に於ては、・・・斉彬に<も>依頼して、幕船2隻を建造せしめた。
 斉彬は、・・・4隻の船を造り、2隻を幕府に納め、我国に旗の制定がないのを遺憾として、旭日章<(注49)>の国旗を案出して、幕府に提出した。・・・

 (注49)「島津斉彬は老中首座の阿部正弘に、日の丸を日本国惣船印に用いるべきだという建白書を提出するにあたって、水戸藩の徳川斉昭、宇和島藩の伊達宗城、佐賀藩の鍋島閑叟といった有力大名たちにも同意を得ていた。 しかし反対意見も少なくなかった。とくに守旧派の幕府体制にこだわる人々には「日本国」という意識が乏しく、惣船印は徳川の「中黒」 を用いればよいではないかとする意見も少なくなかった。しかし開明的な藩主たちの後押しを得て、「日の丸」が日本国の惣船印に定められたのである。・・・
 <ちなみに、>日の丸<は、かねてより>江戸幕府の御用船旗に用いられ<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
 「日章旗(#国旗としての日章旗)を基に白地に太陽光を表す赤系の光線(旭光)を用いたものが「旭日旗」であり、1870年(明治3年)に大日本帝国陸軍の旗章たる「陸軍御国旗(軍旗)」として考案・採用、法令上初めて制定されたものが旭日旗の起源である(#軍旗・軍艦旗としての旭日旗)。これは明治維新で日章旗を幕府陸軍が軍旗として採用したため、それと敵対した新政府軍の系譜たる陸軍に新たな象徴たる軍旗(=旭日旗)が必要とされたことによる。 遅れて1889年(明治22年)には、大日本帝国海軍においても軍艦旗として旭日旗を採用。・・・
 毛沢東<は>旭日模様をとても気に入って<おり、>・・・旭日模様のデザインが中国共産党の下で積極的に好んで利用されてきた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%97%97

⇒旭日旗に関しては、「是聖房蓮長<は、>・・・1253年(建長5年)・・・4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋から昇る朝日に向かって声高らかに「南無妙法蓮華経」と初めてお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされると共に誓願を立てられたのです。この頃名を「日蓮」と改められました。・・・<この年、近衛家の猶子たる>日昭<が最初の高弟として>入門<。>」
https://www.nichiren.or.jp/buddhism/nichiren/08.php
という話が連想されました。
 旭日旗を提唱したのは、近衛家/薩摩藩、であった可能性が大であるだけに、考えようによっては、これ、「日蓮主義による維新」宣言だからです。(太田)

 幕府・・・は、一方建艦を督励する傍ら、我国と親交を有する和蘭に向つて助力を求めて、急速に、わが海軍を造らうと計劃したのであつた。
 つまり、<1853年に>最新式の艦船を和蘭から、購入すべく交渉をなしたのである。・・・
 <その後、紆余曲折があったが、>1855<年>に・・・汽船1隻<が>幕府に贈<られる運びとなっ>た。
 観光丸<(注50)>といふのがそれで、わが洋式海軍の嚆矢である。 」(260~261、265~266)

 (注50)1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所練習艦としてオランダより江戸幕府へ贈呈された軍艦。 江戸幕府初の木造外車式蒸気船。旧名スームビング号(Soembing)・・・インドネシアの火山・スンビン山(Gunung Sumbing)より名付けられた・・・。 スンビン号とも。 木造の外輪船で3檣スクーナー型のコルベット。
 1850年(嘉永3年)にオランダのフリシンゲンで建造が開始され、1853年(嘉永6年)に完成。<米国>に先んじて日本を開国させ権益を守りたいオランダ政府は、日本における<米>艦隊の使命などについて詳細な情報を得るためヘルハルドゥス・ファビウス中佐を艦長に同船を日本に派遣、1854年(嘉永7年7月1日に長崎着。 西欧文化の優秀性を理解させることで開国を促したいオランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスは、ファビウス中佐滞在中に日本で海軍教育を行ない、 幕府は臨時海軍伝習計画を建てて操艦術の指導を受け、各藩は優秀な人材を長崎に派遣留学させた。 これが長崎海軍伝習所の始まりだった。 同年9月5日、スンビン号は一旦長崎を離れ、10月にジャカルタに寄港した。 クルティウスはオランダ政府に対してスンビン号を幕府に寄贈するよう提案、 政府の同意を得てファビウスはスンビン号(艦長ヘルハルト・ペルス・ライケン)を率いてフェデー号(Gedeh)・・・インドネシアの火山・ゲデ山(Gunung Gede)より名付けられた。[要出典]・・・で1855年(安政2年6月7日)に再来日。 安政2年8月25日、スンビン号はオランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定へ贈呈され、日本の最初の蒸気船となる。 この時日本側は返礼として、狩野雅信や狩野永悳といった当代一流の御用絵師たちが描いた金屏風10双を贈<った>・・・。
 翌年「観光丸」・・・『易経』の「観国之光(国の光を観る)」からとったものである。ちなみに観光旅行等の「観光」は、この後にここからとった言葉であるという。・・・と改名し、幕府海軍の練習艦として使われる。[要出典] 安政2年(1855年)から6年にかけて長崎に於いて「観光丸」を練習艦(のちに他艦も追加)、ペルス・ライケンなどを教官として海軍伝習が行われた。その最中、遠隔地である長崎ではいろいろ問題があることから安政4年に江戸で軍艦教授所が開設されることになり、「観光丸」で帰府した第一次伝習生徒がその開設要員となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%85%89%E4%B8%B8

⇒観光丸(旧スンビン号)を通じて、日本がその標準を漢人文明・・私見ではそうではなく中原文明・・から欧米文明・・私見では欧州文明とアングロサクソン文明・・を切り替えた象徴であると痛感させられると同時に、当時のオランダが、いかに蘭領東インド(インドネシア)・・後に日本が「解放」!・・への思い入れが深かったかを痛感させられます。(太田)

(続く)