太田述正コラム#14216(2024.5.16)
<コラム#14163とコラム#14214の補足>(2024.8.11公開)

1 始めに

 昨日、分ったり気になり始めたりして必要性を感じたところの、表記について書くことにしました。
 表記中の、昨日後者コラムの気になった箇所については、有料読者の数が少なく、しかも、配信有料コラムをすぐには読まない人が多そうなので問題提起がなかったのは止む無しとしても、一カ月も前の前者コラムに係る昨日分かった箇所については、私が当初から気になっていた問題であり、しかも、多数おられる無料読者にもこのコラムは配信済みなだけに、これまで一人の読者からも問題提起がなかったことは、いささか残念に思っています。

2 コラム#14163の補足

 このコラムの赤穂事件の部分で最初から気になっていたのは、どうして、そもそも、山鹿素行は赤穂浅野藩に仕官したのかです。
 浅野氏「初代」の浅野長政が反日蓮主義者であっただけに、浅野本家ではないとはいえ、日蓮主義者の素行が赤穂浅野藩に仕官してがっかりするのは目に見えていたのにどうして、という問題です。
 昨日、私が気が付いたのは、秀吉の姉の日秀の子で秀吉の養子でもある秀勝、と、あの江の娘である豊臣完子(さだこ。1592~1658年)・・淀君の猶子にして後に江の再婚相手たる秀忠の養女。また、その三女は完子の祖母である日秀の後を継いで瑞龍寺2世になっている・・の嫡男である九条家第19代当主の九条道房の長女の愛姫とその没後五女の八代姫、が、浅野本家の広島藩の第3代藩主の浅野綱晟(つなあきら)に嫁いでいること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%AE%8C%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B6%B1%E6%99%9F
です。
 このことから、素行は、浅野本家が少なくとも信長流日蓮主義家となり、従って赤穂浅野藩も同様である、という可能性に賭けたのではないか、と、私は想像するに至った次第です。

3 コラム#14214の補足

 このコラムで、「旭日旗は戊辰戦争の時に官軍が使用したこと<は、>・・・考えようによっては、これ、「日蓮主義による維新」宣言だ」としたけれど、一 日章旗も日蓮と関係していると言えるのではないか、二 日章旗の方こそ、島津斉彬が提案したことがはっきりしているではないか、三 結局日章旗が維新後も日本の国旗として使われ続けたではないか、と、言われるのではないか、と、気になったわけです。
 一については、日蓮は、「1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月22)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
というのですから、日蓮の「日」は「旭日」の「日」です。
 二については、「幕府は、勘定奉行・勘定吟味役・目付からなる大船製造掛に昨年9月の評議案を審議させ、惣船印を白黒の吹貫、帆印を白地中黒、幕府船を日の丸幟との答申を得た。1854年6月29日(嘉永7年6月5日)に老中首座阿部正弘が幕府海防参与徳川斉昭へこの答申を諮問した所、斉昭は白地中黒は徳川氏の先祖である新田氏の印で、日の丸は国名である日本を示す印であり、逆にするべきと提言した。その後1か月余りの間に斉昭と幕府の間で折衝が行われた結果、斉昭の意見が容れられ、1854年8月2日(嘉永7年7月9日)に白地日の丸幟を「日本惣船印」とすることが通達された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
という、薩摩藩も近衛家も日章旗国旗化に関わっていないとする有力説があることも考慮されるべきでしょう。
 三については、「幕府海軍に続き、1862年(文久2年)に創設された幕府陸軍も軍旗に日の丸を採用し<、>・・・戊辰戦争においては、・・・旧幕府方の彰義隊、会津藩(白虎隊など)、奥羽越列藩同盟の一部などは、自分たちの共通の旗として・・・「御国総標」たる日章旗を掲げて戦った」(上掲)にもかかわらず、官軍側が、(錦の御旗はともかく、)日章旗と同じく太陽を意匠化した旭日旗を軍旗として採用したこと、しかも、敵軍旗として使用されたところの、旭日旗と同工異曲の日章旗を維新後も引き続き国旗(御国総標)として使い続けたことこそ、薩摩藩/近衛家にとっての日蓮の「日」の枢要性を示すものだ、と、私は思うのです。