太田述正コラム#14220(2024.5.18)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その21)>(2024.8.13公開)

「・・・松陰や、方谷が、支那、朝鮮を対象としてゐるのと違つて、彼は西欧諸国を対象にしてゐるのである。
 そして国防は、進んで敵を打つにあるといふ、皇国の伝統政策を採用してゐる。・・・

⇒「皇国の伝統政策」?(太田)

 文久2<(1862)>年の、・・・海舟・・・の意見を見ると、第一、大策は魯国の不信を唱へ、彼と戦ふにあり、第二、士民を不論(ろんぜず)、有志の輩海外諸州随意に往来免許すべきにあり、第三、沿海大諸侯に令し、水軍を起すにあり、と言つてゐる。・・・
 <その上で、>海舟・・・は、軍艦を以て沿岸防備に当り、敵の弾薬輸送を洋上に妨げ、進んで、敵の根拠をつく出征が良法であるとのべてゐる。・・・

⇒要するに勝海舟は、私の言う横井小楠コンセンサスを唱えているわけですが、(松原は気が付いていないようながら、)勝は、交流があった横井の論を横流し的に唱えただけだと思います。
 ちなみに、横井小楠コンセンサスの系譜は、本シリーズ等を踏まえれば、徳川光圀(1628~1701年)…→吉雄耕牛(1724~1800年)/杉田玄白(1733~1817年)/工藤平助(1734~1801年)→林子平(1738~1793年)…→横井小楠(1809~1869年)→勝海舟(1823~1899年)、といった感じになるのではないでしょうか。
 光圀と二番目の医師グループとの間が「…→」なのは、時期が飛んでいる上、光圀が日蓮主義者であるけれど、彼ら、及び、林、横井、勝、がそうではないからですし、林と横井との間も「…→」なのは、時期が飛んでいることに加え、医者グループと「自由人」たる林、とは違って、横井(と勝)はれっきとしたしかも、それぞれ、越前藩と幕府の要職に就いた人物であって、自ずから強い発信力を持っていたからです。(太田)

 かうした見解は、明治維新後に於て、征韓論者達によつて受けつがれ、西郷隆盛なども、・・・「・・・先づ朝鮮、満州を経略すべし」と言ひ、江藤新平<(注55)>も、明治4<(1871)>年3月の「対外柵」<(注56)>に於て「夫(それ)支那は亜細亜の争地なり。不得之(これをえざる)者は危く、苟も之を得れば亜細亜の形勢を占領するなり。夫支那を取り亜細亜の形勢を占め、賢に任じ、能を使ひ、政治を整へ、民心を安んじ、終には米魯等と、世界を争ふべきなり」と言つてゐる。」(300~301、303、306)

 (注55)1834~1874年。「佐賀藩士<。>・・・
 安政3年(1856年)9月、22歳の時に開国の必要性を説いた形勢、招才、通商、拓北の4章から成る長文の意見書『図海策』を執筆。この『図海策』において江藤は開国や蝦夷地開拓等を提案、特に佐賀藩出身で幕府の儒者となった古賀侗庵、古賀謹一郎父子がロシア研究の第一人者である事に影響を受けた蝦夷地開拓論は、藩主の鍋島直正から高い評価を受け、藩士・島義勇の蝦夷現地調査に繋がった。・・・
 明治4年(1871年)の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、初代・司法卿に就任し、司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、司法改革に力を注ぎ、日本近代の司法制度の基礎を築いた。
 明治6年(1873年)に参議に転出<するも、>・・・同年、征韓論争に敗れて辞職。翌年に民撰議院設立建白書に署名する。帰郷後は佐賀の乱の指導者に推され、征韓党を率いて政府軍と戦うが敗れる。高知県東部の甲浦で逮捕され、佐賀城内の臨時裁判所で死刑に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
 (注56)「岩倉具視に提出した意見書<。>・・・清をロシアとともに攻めて占領し、機会を見つけてロシアを駆逐し、都をそこに移すといった内容のことが書かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3

⇒同じようなことを言ってはいますが、同じ征韓論と言っても、西郷隆盛は日蓮主義の見地から、また、江藤新平は、佐藤信淵→平野国臣/吉田松陰の系譜の見地から、なので、背景は異なる、という認識を持つべきでしょう。
 後者の系譜は、要するに、(ロシアを含む)欧米の帝国主義の鏡像に他なりません。(太田)

(続く)