太田述正コラム#14222(2024.5.19)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その22)>(2024.8.14公開)

 「・・・徳川幕府末期から、明治維新までの国防思想の経路を辿つて見ると、まずロシヤの南下に対する警鐘が、寛政年間(西暦1789~1801)林子平などによつて発しられ、外国の事情が十分分らなかつたために、我国の国民的特性は、発して、本多利明<(注57)>や、佐藤信淵などの外征論となり、更に天保年間(1830~44)に至つて、蘭学者達によつてイギリスなどの事情が、稍(やや)詳細に分明するに至つて、今度は恐怖に変り、幕府の国防計劃が真剣となり、高島秋帆や、江川太郎左衛門等によつて兵器、兵制の改革が主張せられ、また実際上の努力が払はれたのであつたが、嘉永年間(1848~54)の黒船は、恐怖を最高調に沸騰させ、一方に於ては着実なる海軍の建設、洋式兵制の採用が幕府に行はれ、民間に於ては、攘夷論が横行した。・・・

 (注57)「1787年に東北への旅を決行。天明の飢饉で苦しんでいる惨状を目の当たりにしたことで利明の関心は経世論へと傾いていきました。
 北方からの脅威(ロシアとの関係)を<、>日本を欧州化(植民地政策の必要性を訴える、仮名をアルファベットに変更など)<、>蝦夷の開発と[、ロンドンと同じ緯度に遷都すれば日本の首都もロンドン同様に繁栄するであろうとの理由から<の>]カムチャッカへの進出<、>ロシアと国交を結び、交易をはかること<、>で乗り切ろうという思想も持っていました。・・・
 本多利明は日本海の重要性を訴えます。環日本海交流を図るべき(貿易振興による富国策、重商主義)という本多利明の提言は財政難の加賀藩にとっては魅力的なものでしたが、実行するには危険すぎるものでもありました。
 ・・・加賀藩前田家の家老・奥村栄実は、普段から昵懇にしていた金沢の海商・銭屋五兵衛に幕府には内密にした密輸の計画を打ち明けます。
 結果、五兵衛は蝦夷地や択捉島でロシアと、鹿児島の南方諸島ではイギリスと、果ては北米やオーストラリアのタスマニア島への渡航説が出るほど広域で貿易を行い、『加賀の銭屋か銭屋の加賀か』とまで揶揄されるほど実績を上げました。
 加賀藩もその恩恵にあずかることになりますが、奥村栄実と銭屋ら大商人との癒着が指摘されているなど敵も多く反対派も多くいたため改革は中途半端に終わります。・・・
 そんな奥村の死後、政権を握ったのは黒羽織党と呼ばれる党派。前政権で大商人との癒着を指摘していたのも彼らです。銭屋五兵衛は奥村の死後は微妙な立場に陥ったこと、幕府に密輸の件が露見することを恐れられて証拠不十分の罪を着せられ獄死。300万両もの莫大な財産を加賀藩に没収されています。・・・
 黒羽織党の面々の多くは上田作之丞という人物が開いた私塾・拠遊館出身者です。
 この上田作之丞、実を言うと本多利明の教え子。重商主義的な国産増殖・交易論の考え方に多大な影響を受けていたそうで藩営での産業を推奨しており、黒羽織党のメンバーはその上田作之丞の考え方を支持していました。
 とは言え、結局は藩内一致で改革できるような状況ではなかったので、やはり中途半端で終わっています。」
https://rekisi-daisuki.com/entry/2018-06-01-101217
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%98%8E ([]内)
 奥村栄実(てるざね。1792~1843年)。「加賀八家奥村宗家第11代当主。国学者。・・・天保7年(1837年)、藩主斉泰によって・・・藩政に登用される。藩政を批判する政敵の寺島蔵人を能登に流罪にする一方、御用商人の銭屋五兵衛と協力して御用銀調達に当たらせた。これらの施策は長連弘ら黒羽織党と呼ばれる一派から厳しく批判された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%9D%91%E6%A0%84%E5%AE%9F
 銭屋五兵衛(1774~1852年)。「銭屋は戦国時代に滅亡した朝倉氏の末裔を自称<。>・・・銭五は本多利明の経済論や、からくり師として名を知られた大野弁吉などに影響を受けていたと言われ、海外交易の必要性を痛感していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E5%B1%8B%E4%BA%94%E5%85%B5%E8%A1%9B
 「黒羽織党(くろばおりとう)は、江戸時代末期(幕末)に、加賀藩の藩政改革を主導した長連弘を中心とする党派である。金沢城下で私塾拠遊館を営んだ実学志向の儒学者上田作之丞の教えを信奉した集団で、弘化4年(1847年)末から長一派が罷免された嘉永7年(1854年)6月までを「第一次黒羽織党政権」(嘉永の改革)と称し、長の死後となる文久2年(1862年)から翌年にかけて黒羽織党の面々が復職し、短期間藩政を主導した時期を「第二次黒羽織党政権」と呼ぶ。・・・
 黒羽織党は、金沢城下で私塾拠遊館を開いていた学者上田作之丞の薫陶を受けたグループで、総じて奥村の天保改革には批判的な面々であった。上田作之丞は、和算家・経世家として名高い本多利明の流れをくむ経世思想家であり、商品作物の藩営化を初めとする重商主義的政策を標榜していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%BE%BD%E7%B9%94%E5%85%9A

⇒本多利明は、越前の隣の「越後国蒲原郡で生まれ」であったこともあるのでしょうが、「1809年に一年ほど加賀藩に出仕しています。」
https://rekisi-daisuki.com/entry/2018-06-01-101217 前掲 (「」内)
が、そのカムチャッカ進出論は、「注57」の最初の方で紹介されている理由、と、彼がロシアとの国交樹立・交易を主張していることから、カムチャッカがロシア領になっているとの認識が希薄だったからと思われ、この進出論を、松原のように、「外征論」の範疇に入れるべきではありますまい。
 なお、奥村/銭谷による密貿易は、薩摩藩が琉球処分以来一貫して行ってきたことであり、本多利明の貿易振興論に背中を押されて薩摩藩の「政策」をマネしようとしたのでしょうね。(太田)

 <しかし、>泰西文明を摂取して、高度の国防国家を建設せねばならぬことを最も痛感したのは、アメリカ、イギリス、フランス、ロシヤの兵威に直接接触して、外交上の衝に当つた幕府の役人と、それから、鹿児島湾に於て、文久3年(1863)、実際上に於てイギリスの7艘の軍艦と戦端を開いて被害を被つた薩摩藩と、それから、元治元年(1864)、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国の軍艦を相手にして馬関に戦端を開き、遂に、その結果、外国軍隊のため、長州藩の一角を占領され、砲台を奪取せられ」て、痛苦をなめた長州藩とであつた。 」(307)

⇒薩摩藩に関しては、島津重豪(1745~1833年。藩主:1755~1787年)の時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
から既に「痛感し」ていた、と、言ってよいでしょう。(太田)

(続く)