太田述正コラム#14224(2024.5.20)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その23)>(2024.8.15公開)

 「・・・明治元年、正月17日に、我国の朝廷に於ては、始<(ママ)>めて、陸海軍務総督といふのが設けられて、海陸軍務総督には、議定副総裁、岩倉具視、議定嘉彰(よしあき)親王<(注58)>、議定島津忠義がなり、海陸軍務掛には、参与の広沢真臣<(注59)>、西郷隆盛が就任したのであつた。・・・」(314)

(注58)小松宮彰仁親王(1846~1903年)。「伏見宮邦家親王第8王子である。・・・明治維新時には・・・仁和寺第三十世の門跡<からの還俗であったことから、>・・・仁和寺宮嘉彰親王と名乗[<り、>徳川慶喜征討軍の大将軍<として>・・・錦旗を掲げて・・・進軍<を開始した>]。・・・川上村の金剛寺に後南朝の皇族・自天王の碑を建てた。大覚寺統の皇族が持明院統の皇族によって憐れまれたのはこれが初めてであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%BD%B0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 自天王(1440?~1457年)。「長慶天皇三世孫だろうと推定している<説もある>・・・自天王<は>、・・・赤松家再興をめざす赤松家遺臣らによって殺害された・・・(長禄の変)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%A4%A9%E7%8E%8B
 「室町幕府は後南朝によって約15年もの間・・・京都から持ち去られていた神璽の<、赤松家遺臣らによるところの、自天王殺害の翌年における>奪回成功の功績を認め、赤松氏の再興を許し、赤松政則に家督を相続させた。また、その勲功として加賀北半国の守護職、備前国新田荘、伊勢高宮保が与えられた。
 赤松氏再興と所領の付与には細川勝元が積極的に関与している事も確認されており、赤松氏を取り立てる事で山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%A4%89
 (注59)1834~1871年。「慶応元年(1865年)、高杉晋作や伊藤春輔<(博文)>、山縣狂介<(有朋)>ら正義派がクーデターによって藩の実権を掌握すると、中間派であった・・・広沢真臣・・・が政務役として藩政に参加することとなった。・・・
 維新政府の発足後は、参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任。戊辰戦争では、米沢藩の宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸と同様に寛典論者であった。明治2年(1869年)、復古功臣として木戸や大久保利通と同じ永世禄1,800石を賜<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%B2%A2%E7%9C%9F%E8%87%A3

⇒「王政復古のクーデター・・・の成功により新政府が樹立され総裁・議定・参与の三職が新たに設けられると、熾仁親王はその最高職である総裁に就任する<が、>・・・明けて慶応4年(1868年)、薩長の度重なる挑発に対し旧幕府軍はついに戦端を開き(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発する<と>・・・、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し、勅許を得た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%86%BE%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
ことから、彰仁親王は東征大総督にはならなかったわけですが、新政府樹立時点で最重要であった新政府軍の最高指導者に、新政府内融和のために起用されたと思われる、岩倉具視と広沢真臣の2人以外の嘉彰親王、島津忠義、西郷隆盛の3人が日蓮主義者であったことは銘記しておくべきでしょう。
 (彰仁親王が後に後南朝に敬意を表したのはただ事ではありませんが、これは、伏見宮家全体の意向を反映したものでしょう。)
 この人事の背後には、近衛忠熈がいた、と、私は想像しています。(太田)

(続く)