太田述正コラム#14226(2024.5.21)
<松原晃『日本國防思想史』を読む(その24)>(2024.8.16公開)

 「明治2年には、官制が更定して、兵部省が生れて、嘉彰親王が兵部卿に就任され、大村益次郎が、兵部大輔になり、陸軍軍政の改革に当ることになつた。・・・
<こうして、>薩、長、土、肥の兵を以て、親兵を編制<する等のことが行われ>た。・・・
 大村はそれがために明治2年・・・刺客に斃れるに至り、各地に於ては、士籍を削られる士族の反抗が相つゞいて起つて一時は騒ぎであつた。・・・
 <そこで、>山県有朋が、洋行から帰つて兵部少輔に就任し、更に、兵部大輔になると、改革は着々と進捗した。・・・
 明治5<(1872)>年に至ると、・・・陸海軍<が>分離<され>た。・・・
 同6<(1873)>年陸軍卿には、山県有朋が就任し、海軍卿には、勝海舟が就任した。

⇒この時点では、薩摩の大久保利通が、私の言う日蓮主義者の総帥であったことに加えて、1873年の明治六年政変以降は最高権力者になっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%8F%B8%E5%B0%82%E5%88%B6
ところ、その大久保が明治11(1878)年に斃れる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
と、長州の木戸孝允が明治10(1877)年に亡くなっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
こともあり、長州にして(私の言う)隠れ薩摩の山県有朋が軍部を掌握する形で大久保に代わって日蓮主義者の総帥になった、と、私は見ているわけです(コラム#省略)。(太田)

 続いて11月28日に、徴兵の詔書が下つて、国民皆兵主義が施行されることになり、茲に始めて、朝廷の軍隊が全国民より構成されることになつた。・・・
また、明治6<(1873)>年の12月には、当時の北海道開拓使次官黒田清隆によつて、北海道屯田兵の献議があり、この月に允許(いんきょ)された。・・・
 <1877年の西南戦争の>時には、北海道の屯田兵は、・・・悉く出征の電命をうけ、・・・鎮台兵に劣らぬ武勲を輝かした。・・・
 <ちなみに、>屯田兵は、ロシヤのコサツク兵の編制及び生活、アメリカの植民政策を加味し、満州等の寒地の農業方法が参酌されて、出来上つたものであつた。・・・
 明治13<(1880)>年に於ては、村田経芳<(注60)>(つねよし)によつて、我国最初の軍用銃、村田銃が発明され、18年、23年に改良が加へられ、十三年式と十八年式は、後年日清戦争に使用せられ、23年式(五連発)は北清事変に使用されたのであつた<。>・・・

 (注60)1838~1921年。「薩摩藩士・・・。藩随一の射撃の名手として知られ、戊辰戦争では外城一番隊長として従軍し、鳥羽・伏見の戦いなど東北各地を転戦した。
 1871年に御親兵として上京し、陸軍歩兵大尉に任官する。1875年、射撃技術と兵器研究のため、フランスなど<欧州>に派遣される。1877年、陸軍少佐。陸軍戸山学校教官として銃の改良や射的技術の向上にあたり、1880年には最初の国産銃・十三年式村田銃を開発した。
 陸軍省東京砲兵工廠御用掛、貴族院議員を歴任した。1890年に陸軍少将に昇進して予備役編入となる。1896年6月5日、戊辰戦争・西南戦争の軍功により男爵を叙爵。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E7%B5%8C%E8%8A%B3

 更に14年にはフランス制度に傚つて、憲兵が設けられた。

 (注61)「憲兵制度は、竹橋事件の影響や、自由民権運動の牽制、警視庁の薩摩閥勢力の減殺などのために創設されたともいわれる。
 憲兵設立の際、警視庁は・・・、警察官から憲兵への転出人事を行っている。・・・転出して憲兵になることが予定された警察官は835人であり、これは東京憲兵隊の定員1612人(1881年3月現在)の53%に相当した。初代東京憲兵隊長には、警察出身の三間正弘(別働第3旅団参謀)が任命されている。憲兵少尉以上の35人(1882年9月現在)のうち、20人が警察出身だった。警察から憲兵に転出した警察官は、西南戦争の際に動員された警察官であった(新選旅団・警視隊)。憲兵設置のその日に、警視庁の警備掛は廃止され、・・・所管の兵器が全て陸軍省に納付されている。
 東京府会は、「憲兵の配置は警察力の増強である」として、警察費を大幅に削減し、巡査の定員が半減した(1874年1月の巡査の定員6000名、1881年3月は3160名)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E5%85%B5_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
 三間正弘(みつままさひろ。1836~1899年)。「長岡藩士<。>・・・<官軍側で>戊辰戦争<で活躍。>・・・警視庁に・・・入り、・・・西南戦争に別働第3旅団参謀として出征した。
 1881年(明治14年)3月、憲兵中佐に昇進し東京憲兵隊本部長に就任。1884年(明治17年)10月、憲兵大佐に進級。1889年(明治22年)3月、初代憲兵司令官に着任。
 ・・・石川県知事<も>務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%96%93%E6%AD%A3%E5%BC%98

⇒「注61」からも分かるように、戦前においては、県知事は、軍で言えば大佐クラス、中央官衙で言えば課長クラス、の職位でしかなかったのであり、戦後の知事のステータスの向上は、日本の中央政府の権能低下の反映と言ってよいのかもしれません。(太田)

 明治15<(1880)>年の1月4日には、・・・天皇<より、>・・・軍人・・・勅諭を賜はつた。」(315~316、319~324)

(完)