太田述正コラム#14232(2024.5.24)
<和辻哲郎『日本の臣道 アメリカの国民性』を読む(その3)>(2024.8.19公開)

 「かくして武士の任務は道を実現することに認められました。
 身命よりも重い貴いものは道として把捉されたのであります。
 この立場では武士の古風な主従関係は儒教風の君臣関係として活かされて居ります。
 しかしそれは主として封建的な君臣関係であつて、今だ十分に尊皇の道とはなつて居りません。
 たとひその点に目ざめる人がありましても、初めはただ儒教風の大義名分の思想を媒介として、従つて尊皇論ではなく『尊王論』<(注3)>として自覚されたのであります。・・・

 (注3)「尊王論は江戸時代当初から一貫して存在する。思想的にはそれは儒教の系譜に立つものと国学の系譜のものに大別される。前者にはニュアンスの差があるが,最高権威としての天皇と政権の行使者としての将軍との間に上下関係を認める名分論が基本となっていたといってよかろう。他方,国学の尊王論は記紀の神話を事実として前提し,皇祖神より血統的連続性をもつ天皇に絶対性を認める論理を基礎としていた。・・・
 幕末までは尊王と敬幕(幕府の敬重)とが両立し,むしろ不可分に結びついていた点に特徴がある。」(植手通有)
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96-90662
 植手通有(うえてみちあり。1931~2011年)。東大卒、成蹊大教授、同名誉教授。日本政治思想史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%89%8B%E9%80%9A%E6%9C%89

⇒「注2」からも分かるように、既に山鹿素行において、「武士の・・・道」は即「尊皇の道」なり、という認識であったことは明白であり、和辻が言っていることは意味不明です。
 また、やはり「注2」を踏まえれば、江戸時代における尊王論が、儒学者と国学者とで「ニュアンスの差があ<った>」とは思えないのであって、「注3」で紹介した植手の解説は間違いではないでしょうか。(太田)

 我々の祖先は、絶対の境地を把捉しながらしかもそれを絶対神として限定せず、またその教義をも作らなかつたのであります。・・・
 我々の祖先<にとっては、>・・・天照大御神・・・が国土創造の神々よりも、またそれ以前の神々よりも大切なのであります。
 ここに我々は・・・世界宗教と明白に異なる点を理解しなくてはなりませぬ。・・・
 <仏教においてすら、>・・・日本の仏教<はともかく、>・・・印度の仏教に於ては他の宗教は外道として激しく排撃せられて居ります<(注4)>。・・・」(14、16~17)

 (注4)「外道<の>・・・サンスクリットの原語は(anya‐)tīrthakaであって,(その宗教より)以外の宗教およびその信者,すなわち異教,異教徒を意味している。外道に対して,仏教はみずからを内道(ないどう),内教,内法などと言う。しかし,仏典中に用いられた外道の意味は必ずしも前述のように広くはなく,主として,古代インドにおけるものを指しており,六師外道,九十五種外道などすべてインドの外道である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E9%81%93-587255
 「古くは「異学(いがく)」「異見(いけん)」と<漢>訳された。やがて、外道の語が用いられてから、他をけなす意味をも含むようになり、邪道と同義にさえ用いられるようになり、さらに、仏の教えを非難し、そしる者をも外道とよぶようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%96%E9%81%93-490819

⇒ウィキペディアもコトバンクもなかった時代で、しかも、時勢に迎合せざるをえないところの、一般人向けの講演と思しきとは雖も、「注4」に一瞥をくれるだけでも、和辻は、ここでも、雑駁過ぎるというか、より端的に言えば、ねじ曲がった主張を開陳している、と、言われても致し方ありますまい。(太田)

(続く)