太田述正コラム#14238(2024.5.27)
<和辻哲郎『日本の臣道 アメリカの国民性』を読む(その6)>(2024.8.22公開)

 「・・・武士たちの・・・死生を超えた立場は他方に於て道への奉仕によつて得られた<のであるところ、>・・・この道への奉仕を・・・我々の遠い祖先は尊皇の道に於て自覚して居つたのであります。
 その自覚は清明心といふ概念によつて現されて居ります。・・・
 何を心の清さ明さと考へてゐるかと申しますと、私を滅して大君に仕へまつることなのであります。
 即ち滅私奉公であります。
 少しでも私があれば、そこに濁つた薄暗い心境が生ずる。・・・
 これはいかなる共同体にも通用する根本的な倫理でありますが、我々の祖先はこれをもっとも大いなる共同体に於て把捉したのであります。
 従つてあらゆる人間の道は清明心に帰著すると申してよいのであります。

⇒和辻が何を言っているのか、私にはさっぱり分かりません。
 例えば、和辻は、「大君<(天皇)>に仕へまつること」が「もっとも大いなる共同体」「に仕へまつること」だと言っていますが、「もっとも大いなる」が、常識的に考えれば、「最も大きな」ではなく「最も偉大な」なのである、とすれば、どうして「大君」をいただく「共同体」が「最も偉大な」共同体であるのかを説明しなければならないのに、説明していないのですからね。
 さしずめ、私であれば、日本文明は人間主義を抱懐する共同体の文明であってその元首は天皇であったことから、天皇をいただく日本は「最も偉大な」共同体であった、と、説明するところですが・・。(太田)

 我々の祖先はこの清さを重んずること、善を尚(たふと)ぶよりも顕著でありました。・・・
 この善悪とかヨイワルイとかと申す言葉は、我国でも支那でもヨーロッパでも、吉凶禍福の意味を含んで居ります。
 Guter,goodsなどがヨキ物即ち財を意味してゐるなどはその適例であります。・・・

⇒この箇所は、面白いと思います。(太田)

 <しかし、>我々の祖先は清さ穢さの別を非常に重んじて、利福の如きを眼中に置きませんでした。・・・

⇒「利福の如き」も「眼中に置」いたと私は思いますがねえ。
 いずれにせよ、「禊(みそぎ)と祓<については>、禊が身体の穢れを除去して浄める行為を指すのに対し、祓は罪や災いをとり除く行為を指していた。だが、両者は機能が近いこともあり、記紀の時代には既に、「ミツギハライ」と複合した言い方もされるようになっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%93
ところ、私は、「ミツギハライ」の意味で「禊」を使っています(コラム#14185)。
 そして、日本人が家内外の掃除フェチなのは、掃除・・箒と大麻(おおぬさ=大幣)との形状と「機能」の類似に注目。「大麻を・・・振って使用し、これによって大麻に穢が写ると考えられている」(上掲)・・・、それを一種の宗教行為と潜在的に意識しているからである、と、見ています。(太田)

 この性格からして・・・武士たちの廉恥を重んずる気風が生じ、そこから儒教の君子道徳に対する理解の道が開けたのであります。
 が武士たちに於てこのやうに清さの体得が深められた反面には清明心が大君への奉仕であるといふ重大な面が閑却されてゐるのであります。」(19~20)

⇒ここもまた、意味不明です。(太田)

(続く)