太田述正コラム#2669(2008.7.15)
<ハセガワとベーカーの本(その5)>(2009.1.21公開)
7月17日、ポツダム会議に出席すべく、ソ連の占領下にあったベルリン郊外のポツダムにいたトルーマン大統領に、原爆の爆発実験が成功したとの知らせが入ります(PP140)。
「<トルーマンもスターリンも、日本がソ連に終戦の仲介を打診してきていることにソ連が明確な回答を与えるべきではないと考えていた。ただしそれぞれ全く違った理由で・・。>スターリンにとっては、日本にモスクワの手助けによって終戦に導けると信じ込ませ続けることができれば好都合だった。そうすればスターリンは無警戒な敵に対して戦争準備を行うことができるからだ。トルーマンにとっては、<日ソ>>交渉の継続という策略が続くことは、ソ連が参戦する前に米国が日本に原爆投下することが可能になるかもしれないからだ。両者とも日本を不意打ちしようと欲していた。スターリンはソ満国境を突破することで、そしてトルーマンは原爆を投下することで。」(PP142)
「<トルーマンは、>第一に、・・・<対日>最後通告<(ポツダム宣言のこと(太田))>は、ソ連の参戦以前に発出されなければならず、かつまたソ連は<(ソ連に日ソ中立条約破棄の名分を与えないため(太田)、)>この合同最後通告発出国から除外されるべきであり、第二に、ソ連の参戦以前に日本を降伏させるためにも、原爆は使用されなければならない<、と考えていた。>」(PP143)
「京都を<原爆投下対象から>はずしたのは、スチムソン<米陸軍長官>が<日記に>記したところによれば、<それによって、原爆投下を行った米国に対する日本の恨みが長く残ることを回避できる上、>米国が「ロシアが満州に侵攻した場合に日本が米国寄りになること」を確保することにつながるからだった。」(PP150)
「<恐らく間違いなくトルーマンの認可の下、原爆投下命令が>7月25日・・に発出された。・・・1945年8月3日頃より後に、広島、小倉、新潟、長崎のうちの一箇所に最初の特別爆弾を投下せよ。また、更に爆弾(複数)が・・・用意され次第、上記目標に投下せよ。」(PP152)
「<原爆>投下命令がポツダム宣言が発出される1日前に発出されたことは銘記されるべきだ。トルーマン、スチムソン両名自身によってでっちあげられ、米国において広く信じられているところの口当たりの良い神話・・日本がポツダム宣言を拒否したことが米国の原爆投下決定をもたらした・・は事実によって裏付けられていないということだ。」(PP152)
7月24日、ポツダムでトルーマンはスターリンに、米国が原爆製造に成功したことを伝えます。(PP154)
「<7月25日、トルーマンは日記に、>「・・・<原爆が投下される>目標は純粋に軍事的なものだ」と記している。つまり、原爆が用いられる前に、既に大統領は「60フィートの高さの鋼鉄製の塔を完全にバラバラにする」ほどの能力のある爆弾が女子供を殺すことなく軍事目標だけに使用できると信じようと自らを欺いていたわけだ。・・・トルーマンは続けて日記に、「われわれはジャップ(Japs)に対して降伏して命を救えと求める警告声明を発出するだろう。私は、連中がそうはしないであろうことを確信している。しかしわれわれは連中にチャンスを与えたことにはなる」と記している。つまり、トルーマン・・の日記は、彼が原爆投下を正当化する口実を得るためだけのために最後通告<(ポツダム宣言)>を発出するであろうことを示唆しているわけだ。」(PP160)
(続く)
ハセガワとベーカーの本(その5)
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