太田述正コラム#14242(2024.5.29)
<津村重舎『皇室中心主義』を読む(その1)>(2024.8.24公開)

1 始めに

 和辻のについてきた2つのうちの1つを今度は取り上げます。
 「本書は津村重舍著『皇室中心主義』(政治經濟時論社、昭九<(1934年))>の電子復刻版です。
 なお、津村重舍(じゅうしゃ。1871~1941年)は、「出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂・・現・ツムラ及びバスクリンの前身・・を創業<。>・・・1904年(明治37年)3月、東京市会議員、1918年(大正7年)6月、東京市参事会員に選出された。1925年(大正14年)東京府多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し研究会に所属。 二・二六事件の<際の>反[軍]演説により、1936年(昭和11年)5月15日、貴族院議員を辞任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%9D%91%E9%87%8D%E8%88%8E
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E6%9D%91%E9%87%8D%E8%88%8E-1092623 ([]内)
 
2 『皇室中心主義』を読む

 「・・・私の考へて見たいことは、さうした自らの悲運に彷徨して居る既成政党が、今期議会に於て、殊に衆議院に於て、軍規に基く「軍人は政治に干与すべからず」の明文を楯にとつて、いはゆる軍部の政治的進出を論難攻撃した(<註>九)事実についてゞである。

註九 ・・・斎藤内閣は荒木陸相の要求に基づき、・・・<1933>年10月に首・外・陸・海。蔵相による五相会議を5回に亘つて開催し、正党出身閣僚を排除した同会議で国策の基本を決定しようとした。・・・<これを受け、>軍のために農村が切り捨てられたといふやうな輿論が澎湃として起つた。・・・12月に商工大臣の中島久万吉<(注1)>がある会合で「衆論は軍部近来の増長振りに対して国家のため何とかせねばならぬといふに一致し、それには結局政党を純化し強化して軍の横暴に対する中流の砥柱たらしめることが最も捷径だ云々」と発言、軍部に対抗するため両党の連携を模索し始めた(政民連携運動)<(注2)>。」(19)

 (注1)1873~1960年。「父の中島信行は土佐藩を脱藩した尊王の志士で、海援隊に入るなど国事に奔走した。明治政府の高官の道を歩むが、下野し、自由民権運動に参加、自由党副総理となる。初代衆議院議長、イタリア公使を務めた。その勲功により男爵となる。そのため、長男の久万吉も男爵を襲爵する。実母はつは、陸奥宗光の妹で、3人の幼い息子を残して逝去した。継母の岸田俊子は、女流の民権活動家・文学者として知られる。妻の八千子は岩倉具経子爵の娘<。>・・・
 1894年(明治17年)に、11歳で慶應義塾幼稚舎に入学。明治学院では島崎藤村と同窓で、文学雑誌『菫草』を主宰し、島崎が文学者になる道を開く。高度な英語力を養い、深いキリスト教的霊性を受けた。その後、慶應義塾本科(現・慶應義塾大学)に復学するも、勉学よりも遊びに身が入り除籍処分となる。土佐に帰郷後、再度上京して高等商業学校(現・一橋大学)に入り、1897年(明治30年)に本科を卒業した。東京株式取引所理事長大江卓秘書役、三井物産専務理事益田孝秘書役、京釜鉄道線路調査委員などを経て、内閣総理大臣秘書官を長く務めた。男爵議員として貴族院議員を長く務め、公正会の領袖となる。
 古河コンツェルン入りし、古河系企業の多角化を推し進め、古河電気工業や横浜護謨を設立させた。財閥外でも日本工業倶楽部の設立に関わるなど、財界人として独自の地歩を歩む。戦後、日本貿易会会長。GHQの政策に多くの提言を行った。日本青年連盟会長、日本外政学会会長。日本工業倶楽部評議会会長。如水会理事。・・・
 1934年(昭和9年)2月9日、製鉄合同問題、台湾銀行所有株券譲渡問題(後に帝人事件に発展)、加えて<足利尊氏を評価した>いわゆる「足利尊氏論」による糾弾を受け、斎藤実内閣の商工大臣を辞任した。・・・
 中島攻撃を主導したのは、菊池武夫・貴族院議員(予備役陸軍中将、男爵、南朝の功臣菊池氏の子孫)であ<った>。・・・
 <最終的に>中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった(爵位は辞退せず)<ものだ>。この足利尊氏論に関わる一連の顛末は、政治に対する軍部の介入と右翼の台頭に勢いを与え、翌年の天皇機関説事件の要因ともなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%B9%85%E4%B8%87%E5%90%89

⇒「註」は、津村本の電子版が上梓された今年のものですが、足利尊氏論議の背景に政民が連携した運動があったことを初めて知りました。(太田)

(続く)