太田述正コラム#14244(2024.5.30)
<津村重舎『皇室中心主義』を読む(その2)>(2024.8.25公開)

 「この動きを軍の側は「軍民離間」の策動だと警戒し<1933年>12月9日に声明を発表。
 陸軍当局は「最近」豫算問題その他に関聯して軍民分離の言動をなすものが少くない。例へば1936年の危機を以て軍部のためにする宣伝となし…(注略)…この種軍民分離の運動は、国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図であつて、軍部としては断じて黙視し得ざるところである。現時平和的に、一国の国防力を減殺するため、国際的策動の二大手段として用ゐられてゐるのは、第三インター<(注2)>の指令に基く自国敗戦を目的とする反戦運動と、右に述べた軍民分離の策動で云々」と反論、海軍当局も陸軍声明に「全然同感である」とした。

 (注2)「1919年3月,ペトログラード(現,サンクト・ペテルブルグ)で開催された革命的プロレタリア政党国際会議は,時期尚早の少数意見もあったが,共産主義インターナショナル(第三インターナショナル)の創設を決議した。そしてロシア革命を起爆剤とするヨーロッパ革命への期待が空しく消えたとき,レーニンらはそこに既成の社会主義政党幹部の裏切りを認め,彼らとの完全な絶縁,鉄の規律と中央集権体制に立脚した一枚岩的国際革命組織をつくりあげることを決意した。第2回大会(1920年7~8月)で承認された21ヵ条(プロレタリアート独裁の明示,非合法組織の併設,軍隊・農村・労働者組織・議会内での活動,植民地独立,民主的集権主義の確立,粛清,執行委員会のいっさいの決議に無条件で服従することなど,社会民主主義との絶縁を規定した)に及ぶコミンテルン加入条件はその具体化であった。またこのような組織原則を守り,コミンテルン支部として編制される共産党は,しばしば社会主義運動の分裂のなかから出現した。そのため,1923年,労働・社会主義インターナショナルの形で社会民主主義の国際組織が復活すると,二つのインターナショナルの対立はさらに構造化した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3-66203
 「中央集権主義をとり、各国共産党を直接指導した。二〇年末までは世界革命をめざす急進的政策、二一~二八年は穏和政策、二八年(第六回大会)以降は極左戦術に転換したが失敗し、三五年(第七回大会)からは反ファシズム人民戦線戦術をとった。第二次世界大戦中、四三年六月、ソ連の政策転換で解散。共産主義インターナショナル。国際共産党。コミンテルン。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-557076

 この両声明は却つて政民連携を促進し、会期が始まるや衆議院において両政党質問者が入れ代り立ち代わり「軍部の政治干与」批判を展開した。

⇒「自国敗戦を目的とする反戦運動」は、第一次世界大戦中のボルシェビキのそれを念頭に置いた一種のデマゴギーであろうところ、帝国陸軍の念頭に真にあったのは、「1932年から・・・「第一次五か年計画は4年間で前倒しに達成された」との認識に基づき、これを引き継ぐ第二次五カ年計画が発表され・・・実施され<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%B9%B4%E8%A8%88%E7%94%BB
ところの、日本にとっての第一義的な潜在敵国に復帰していたところの、ロシア(ソ連)、の高度経済成長でしょうね。(太田)

 ・・・自ら省ることなく、したがつて自らの非行も無気力も、毫も覚ることなくして、たゞ単に「軍人は政治に干与すべからず」とて、徒らなる論難攻撃を為すだけでは、何等の価値をも認められない。
 私は思ふ、今日は政党の反省時代であり、自省時代であると。
 而かも政党解消論の火の手は各方面から挙げられて居る。
 然しながら・・・立憲治下に於て、政党を全然無くするといふことは不可能であるといはねばならぬ。
 したがつて、・・・政党自らが、過去の非行に反省を致し、時局の推移に認識を誤らず、時の政権を掌握せしめられるだけの信頼を回復せねばならぬと思ふ。

註一0 ・・・国際聯盟脱退で一躍「英雄」となつた松岡は、・・・昭和8年(1933)12月8日政友会の鈴木総裁を訪問し、・・・政党解消を主張する脱党声明書を読みあげて離党、・・・議員も辞職した。続いて12月23日には政党解消聯盟を組織<(注3)>。・・・」(19~21)

 (注3)「折からの五・一五事件公判で、政党や財閥の腐敗を糾弾する被告の主張が共感を呼んでいた。
 松岡は同年12月に政友会を脱党し、政党解消連盟の盟主に就く。「党派争いを招く政党政治は非常時に適さない。一国一体主義の実現を」と説いた。
 遊説で広島を訪れ「政党は外国の借り着。脱ぎ捨てるがよい。それが昭和維新の首途(門出)」と中国新聞記者に語る。「ファッショみたいな強権政治か」と聞く記者に「それは国情に合わない」と答えた。]
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=137723
「今日いかなる政党人といえども、政党のために議会が設けられているのではなくて、議会のために政党が設けられているということくらいは承知している、すなわち議会が目的である、しかもわが国で発達した政党はわが国で生み出したものではなく、これを生み出した本家本元はイギリスである、よその借着である、イギリスの政党はイギリス人の如き余裕のある国民性をもって初めて妙味がある、われわれは源平の戦の如くすぐ喧嘩をする性質をもっている、もちろん悪いとは言わない、しかしそういう性質をもっているからイギリス人とは一緒にならない、事実あれだけの余裕のあるヌラリクラリの国民であったから覇道によっても尚且つこの運用は中々うまくいき現在の大英帝国を造り上げるに多大の貢献をしてきたことは事実である。然るにわれわれの方は性に合わない、借着でやった結果はどうか、例えていえばつまり完全な西洋料理になっていないのです、日本料理かといえばそうでもない一種エタイの知れぬ西洋料理、合いの子のようなものが出来上がっている。」(松岡洋右『政黨を脱退して日本國民に訴ふ』(1934年)より)
https://dpub.jp/products/book/13155287

⇒松岡は、自分が長期にわたって滞在した米国のことすら何も分かっていなかった(コラム#省略)人物ですから、イギリスのことが分からなかったのは当たり前であり、「注3」から伺えるように、階層が存在するからイギリスに政党があるのに対して、階層(や米国のような地域差)が存在しない日本では政党は存立根拠がない、という、私のかねてよりの指摘(コラム#省略)に類した指摘が彼にはできなかったわけです。
 もっとも、これは、松岡だけの罪ではなく、松岡自身が行っている東大批判・・「明治、大正、昭和に至るこの半世紀を通じて一体赤門(東大)から何人の偉人と稀しうる人を出したか、私は一人の偉人も明治の教育は生み出していないと思う<。>・・・今日の教育はまるで外国の模倣教育である<。>」(上掲)はまぐれ当たりながら正しいのであって、当時までの日本の学者が、自分の頭でイギリス(や米国)の、政党を含む、政治、の研究をしていなかったからです。(太田)

(続く)