太田述正コラム#14250(2024.6.2)
<植木直一郎『古事記と建國の精神』を読む(その1)>(2024.8.28公開)
1 始めに
和辻のについてきた2つのうちのもう1つを今度は取り上げます。
「本書は植木直一郎著『古事記と建國の精神』(シリーズ日本精神叢書、文部省教學局、昭九<(1934年)>)の電子復刻版です。
なお、植木直一郎(なおいちろう。1878~1959年)は、國學院本科卒、その後、國學院大學に入学し、更に陸軍参謀本部東京振武学校教授を務めつつ同研究科卒、同大講師等を経て同大、大東文化学院教授、國學院大學博士(文学)、戦後教職追放、以後、昭和女子大、東京女学館短大教授を歴任、國學院大學名誉教授、という人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E7%9B%B4%E4%B8%80%E9%83%8E
2 『古事記と建國の精神』を読む
「・・・政府が特に記録撰修の事業を起した事の明かに伝へられて居る最初は、実に推古天皇の御代の事である。日本書紀に拠れば、推古天皇の第二十八年(西暦六二〇)に、皇太子厩戸皇子(聖徳太子)は大臣蘇我馬子と議りて、天皇記<(注1)>、国記<(注2)>、及び臣・連・伴造・国造・百八十部並公民等の本記を作られた。・・・
(注1)「この年が推古天皇の実父(聖徳太子には祖父)にあたる欽明天皇の50年忌にあたることから、同天皇の顕彰とその正統性を示すことを目的に皇統譜の整理を意図して行われたとする説もある。
皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変の際に、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき『国記』とともに焼かれたとされる。あるいは国記のみが焼ける前に取り出されて残ったともいわれるが、国記も現存していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%A8%98
(注2)「その性格については、倭国(日本)の歴史を記した物(坂本太郎説)、諸氏の系譜や由来・功績などを記した物(榎英一説)など歴史書であるとする説が有力であるが、倭国の風土・地理を記した地理書であるとする考えもある(石母田正説)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A8%98
独り<かく>の如き撰修事業が有つたのみならず、推古天皇の御代に於ては、聖徳太子は、三経の疏を著述し、十七条憲法を制定し、道後温泉の碑文<(注3)>をものし給ふなど、時勢は頓に進展して、文書記録の作成が特に目立つて行はれる様に成つた。是れ吾人が此の時代を以て記憶伝誦時代より転じて記録文献時代に入ると為す所以である<。>」(12~13)
(注3)伊予湯岡碑。「飛鳥時代の推古天皇4年(596年)に、道後温泉を訪れた聖徳太子(厩戸皇子)らにより建立されたと伝わる碑である。碑文は古代金石文の1つになるが、原碑は早くに失われ現在は文献上でのみ知られる。・・・
伊予温泉(現在の道後温泉)には天皇などの行幸が5回あり、第3回目で聖徳太子が高<句>麗僧の恵慈<(コラム#9510)>や葛城臣(葛城烏那羅か)らとともに訪れた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E6%B9%AF%E5%B2%A1%E7%A2%91
「葛城烏那羅<(かつらぎ/かずらき の おなら)は、>・・・蘇我馬子が物部守屋を討った際、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)・厩戸皇子らと共に参陣した。崇峻天皇4年(590年)11月新羅討伐大将軍の一人として諸氏の臣・連を率いて裨将部隊2万余を領し、筑紫に在陣した(ただし実際に渡海はしていない)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E7%83%8F%E9%82%A3%E7%BE%85
⇒厩戸皇子の時に、日本が記憶伝誦時代から記録文献時代に入ったとする植木の指摘(10)は示唆的です。
皇子は、遣隋使派遣を決めた時、隋と対等に付き合うためには、日本も本格的な文書社会の体裁を整える必要がある、と、考えた、ということではないでしょうか。(太田)
(続く)