太田述正コラム#14252(2024.6.3)
<植木直一郎『古事記と建國の精神』を読む(その2)>(2024.8.29公開)
「・・・神武天皇の東幸は正しく皇都の東遷であつて、而して上来述べ来りたるが如き見解を以てすれば、<神武>天皇の東遷は、天孫邇邇藝(ににぎの)命」の天降(あもり)に対して、正に第二の「天降」と謂ふべきものであり、又実際に於て当時の「新日本」の建設であつたことは天皇を称へ奉りて「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と申した事でも明かである。
然り而(しか)して従来一千有餘年間皇都たりし京都の地を去つて東の方東京に徙り給うた明治天皇<(注4)>の御事蹟は、亦正しく第三の「天降」であると謂ふべきであり・・・<こ>の第三の天降も、共に天孫の天降と同じく神祖・天祖の大御心を継紹し給ひて天業を恢弘し給ふ所以の鴻業に外ならぬことは素より謂ふまでもない。」(71)
(注4)「鳥羽・伏見の戦い直後の慶応4年(明治元年)1月17日(1868年2月10日)、参与・大久保利通は、総裁・有栖川宮熾仁親王に対して、明治天皇が石清水八幡宮に参詣し、続いて大坂行幸を行って、その後も引き続き大坂に滞在することを提言した。これにより、朝廷の旧習を一新して外交を進め、海軍や陸軍を整えることを図るとする。さらに同年1月23日には、太政官の会議において浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出するに至った。その中で宮中の「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するために遷都が必要で、遷都先としては大坂が適していると主張している。・・・
慶応4年(1868年)閏4月1日、大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出した。これは、数千年王化の行き届かない東日本を治めるため江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であるとし、ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものだった。・・・
江戸開城の直後、薩摩藩洋学校(開成所)の教授である前島密による「江戸遷都論」なる建白書が大久保に届けられた。その建白書によると「遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、帝都にしなければ市民が離散して寂れてしまう江戸の方に遷都すべき。(実際に幕末の江戸は求心力の低下に伴い市民らがそれぞれの故郷へ帰郷するものが増加していた。)帝都は国の中央にあるべきで、大坂は道路も狭小、江戸は諸侯の藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がない」などを江戸遷都の理由としている。
後に、大久保も徳川氏を駿府に移し「江戸を東京とすることが良策」であるとし、東京遷都を支持していくことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A5%A0%E9%83%BD
「前島密<(1835~1919年)は、>・・・。越後国(新潟県)高田藩士・・・の二男。・・・1847年(弘化4)江戸に出て医学を修め、また、<長崎で>蘭学、英学を学ぶ。1865年(慶応1)薩摩藩に英学教師として招かれた。1866年江戸に帰り、幕臣前島家を嗣(つ)ぐ。」
https://kotobank.jp/word/%E5%89%8D%E5%B3%B6%E5%AF%86-16530
⇒前島の出身の高田藩は藩主が榊原氏で譜代でしたが、その経歴から見て、彼は薩摩藩によってリクルートされたと見てよく、大阪をダシに江戸に遷都するとの大久保利通の意図に沿って前島は建白書を提出した(提出させられた)、と、私は見ています。
もっとも、江戸遷都は、佐賀藩論からも伺えるように、「賊軍」側はもちろんのこと、官軍側の諸藩においてもコンセンサスに近かったと思われます。
というのも、全藩主の正室や正室の子供達は江戸住まいで、全藩主は藩主就任中は、江戸と自藩と半々の生活を送っていたことから、京都ならぬ、(江戸時代を通じて権力の中枢であり続けた)江戸こそが、全藩にとって、事実上の本拠であり、かつ、事実上の首都でもあった、からです。
ということは、維新後に、(江戸時代も名目上の首都であり続けてきた)京都が実質的な首都にもなったとすれば、それは、彼らにとっては首都の江戸から京都への移転を意味したはずなのです。
こういったことを踏まえれば、江戸遷都(奠都)は、いわば必然だったのではないでしょうか。(太田)
(続く)