太田述正コラム#14262(2024.6.8)
<板垣退助『立國の大本』を読む(その4)>(2024.9.3公開)

 「・・・吾人は真に能く国家成立の原由、統治権設定の理趣を明かにし、何故に社会の求心力は存在するかの道理を領解して、大(おほい)に集権、統一の業を行ふと同時に、何故に社会の遠心力は存在するかの道理を闡明し、以て大に分権、自治の道を講ぜざる可らず。則ち国家政権の求心力あるに非ずんば、平等の自由を保ち、公同の幸福を享け、社会の安寧を維持し、外列国の侮を防ぎ、国家の独立を全うすることを得ざる也。人民自治の遠心力あるに非ずんば、政権の干渉を防遏し、中央集権の弊害を除き、人民の独立、自主を全うし、之をして充分に其発展を遂げしむることを得ざる也。されば社会の求心力たる統治権、換言すれば最高権は最も鞏固にして動かす可らざる所の基礎の上に立たんことを要し、之と同時に社会の遠心力たる人民の不羈独立の精神も亦た、極めて強勢にして、決して他の不当なる干渉、束縛を受けざるを要す。則ち要はこの両力をして常に其平衡を得せしめ、互に相調和せしむるに在り。若しこの両力にして其平衡を失し、孰れかの一方に偏倚するあらんか、国家は将に滅亡の惨毒に陥らん。為政者たるもの豈深く慮らざる可けんや。・・・
<すなわち、本邦にあっては、>君権熾んにして民権も亦た栄え、民権貴くして君権も亦た尊きを致す也。・・・

⇒ここは、まさに、板垣の言う通りです。
 現在では、「君権」⇒「国権」でなければなりませんが・・。(太田)

 蓋し我邦に在て君民の間を睽離し、恐るべき禍根を培養せるもの、今日の華族制度に如くは無し。・・・

⇒日本では、維新に伴う激変緩和措置として、華族制度は(特権が一切伴わなかったところの、士族制度、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F
ともども)有効であったと思うところ、現在でも、特権がほとんど失われつつも、英国では貴族制度が残っている
https://en.wikipedia.org/wiki/Peerages_in_the_United_Kingdom
ことからも、板垣ほど、大正期において華族制度を非難しなくても、と、いう気がしないでもありません。(太田)

 予は戊辰の役、会津落城の日に方り、かの会津が天下の雄藩を以て称せられたるに拘らず、其亡ぶるに方つて国に殉ずる者僅に五千の士族階級に過ぎずして、一般農工商の庶民階級に至つては、たゞ一農夫の薯蕷を其主に献じたる者あるの外、悉く皆な荷担逃避せし状を目撃し、坐ろに帝国の前途に想到して、憂国の至情自ら禁ずる能はず。因て陣中の将士に告げて曰く、雄藩会津にして若し上下心を一にし、士庶相胥ひて戮力協心以て藩国に尽さば、僅に五千未満の我が朝兵を以て豈容易に之を降すを得んや。而かも斯の如く庶民皆な難を避けて遁逃し、毫も累世の君恩に酬ゆるの概なく、君国の滅亡を見て風馬牛の感を為す所以のものは果して何の故ぞ。・・・ 」(23~25、28)

⇒ここは、岐阜遭難事件での「板垣死すとも自由は死せず」、と共に有名な板垣の言ですが、「板垣退助は自由民権運動に開眼した契機として、戊辰戦争における会津攻めでの経験を語っている。会津で武士だけが抗戦し庶民は逃げ散る様子を見て、四民平等の必要性に気づいたというのだ。
 しかし現実には、明治期の高知藩で士族の等級制度廃止という改革案が持ち上がった時、板垣は最初反対している。明治6年(1873)の征韓論問題で政府を去ると自由民権運動を展開するが、それは政府への復帰運動の性格を有していた。実際、板垣は明治8年3月に政府に復帰したが、権力闘争に敗れて半年ほどで免官となっている。西南戦争でも挙兵を検討しており、言論一本槍(やり)ではなかった。一貫性は認めがたい。」
https://book.asahi.com/article/14128471
と言われてしまっていますね。(太田)

(続く)